南礀中題

いろいろです。基本的にアフィリエイトが多いのでご注意を。

学振採用と修士生活

はじめに

学振について書く記事が少ないというのは昔から思っていた。とくに、人文系DC1の人がどのようにして採用されたのかわからないことだらけだった。経済的保証がある程度ある学振採用は、研究に対するモチベーションが高まる副作用もあるので、多くの人文系修士2年生にも挑戦して欲しいと考えている。ところが、基本的に研究室や専攻の人たちが採用されている場合は添削してもらえるが、そうでない人は徒手空拳になりかねない。情報は多角的かつ、多い方が良い。 そこで、今回のエントリではとりあえず自分の研究にいたった理由をまとめる。研究に関する宣伝目的でもあるので、そういうのに特に興味はない人は、そのうち書く具体的な申請書に関するアドバイスの方を読んでほしい。興味のある人は、ResearchGateGithubのページをぜひ読んでほしい。

現在

僕は、東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻に所属している。 言語科学(言語学、音声学、自然言語処理など)と言語態(文体論、物語論など)に分かれている。 そこで、シュルレアリスム運動やマルチニック(カリブ海)文学に詳しい研究者である、星埜守之教授の研究室にいる。星埜先生は最近、ミシェル・ウェルベックH・P・ラヴクラフト──世界と人生に抗って』などを訳しているが、シェニウー=ジャンドロンの主著『シュルレアリスム』をはじめとしてシュルレアリスムにおける極めて重要な訳書を手がけており、最近は『ふらんす』で「もうひとつのニューカレドニア」を連載しており、これも2018年から19年にかけて著作として刊行する予定があるそうだ。

修士生活

話は2015年に書いていた卒論から始まる。 La Nature について研究した。 ところが、もともとはアンドレ・ブルトンの『磁場』をやるつもりだった。ブルトンの作品のすべてをオートマティスムに回収する読み自体は実は無理があること、そしてそもそものオートマティスムの理論についても2000年代に入って徐々に見直されてきていることを比較的簡単に調べることができたのでまぁ書くのは少しフランス語に苦労するくらいだろうと甘い見通しを持っていた。 日本では蓮實重彦のおかげでなぜか有名なマクシム・デュカンの初期詩篇やその活動のように、『磁場』の中には、生活に浸透していく科学技術のモチーフが散見されている。先のオートマティスムの議論を踏まえつつ、かなりまとまった作家研究があるので、磁場の先行研究を適当にまとめたうえで、リシャールふうのテーマ批評を用いて、窓ガラス、工場、速度というテーマで一つの作品解釈を打ち出そうとした。

しかし、人生と同じように、何一つうまくいかなかった。夏休みに入る頃に泥沼化してしまった。科学技術と生活、という広すぎるパースペクティヴのせいで、パリの都市の歴史、衛生環境史、行政史、科学教育史を学び、そもそもこれでまとめて作品解釈に適用できる視座を納得できるまで突き詰める必要があると感じてしまったのだ。そうして、科学史・科学技術史・科学哲学を文学研究のために方法論的に落とし込む必要があると感じた。

そのなかで、特に科学教育史が重要だと考えて、科学の大衆化というキーワードの重要性を理解し始めるようになった。Nicole HulinやBruno Belhosteなどの行政の側からの科学教育史の変遷を見ているうちに、19世紀には私たちが考えるような検定教科書のようなものはなく、一般向けの概説書をそのまま使っている場合があるといったことを知る。また、科学雑誌が相次いで刊行されていることが科学の大衆化を後押していたことを知った。論文を30本くらいサーヴェイして、表にまとめた。

そうした調査を通じて、科学雑誌の中で La Nature がとくに売れていたし、作家たちにも影響を与えたことを知った(ジャリ、ルーセルとか)。加えて、Manuel Chemineuが La Nature を主題に研究書を執筆していることを知った。シュミノーはフーコーの系譜学の手法を応用することで、18世紀の啓蒙主義時代から第1次世界大戦の前までの科学の大衆化の言説のある一定の型を同定していき、図版にも同様に行われていたということを証明しようと試みていた。言説を形作る点において、単純にジャーナリズム研究が反映されていないな、もしかして科学ジャーナリズムの起源ってこのあたりにあるのかな、と漠然と考えた。 卒論は結局、シュミノーの手法の整理し、ラ・ナチュールの実際の記事の分析から「娯楽性」や「スキャンダル性」といった側面が削ぎ落とされていることを指摘することで、言説分析の不備を指摘した。また、1900年代に入ってからは記事の執筆人もほとんど入れ替わっていることから、1900年代においてラ・ナチュールの中心人物となっていたのは誰なのかを調べ上げて、Henli Coupinといったアカデミズムに席を置きながらも科学記事の執筆を旺盛に行なっていた人物たちを計量的な分析を通じて発見し、それがどのような言説空間を作っているのかということを素描した。

というわけで、結局のところ卒論とは失敗の作業だった。かなり学術研究のセンスがないのではないかと思い悩みもしたが、とりあず指導教官だった鈴木雅雄先生は褒めてくれた。しかし、卒論が終わった段階で次のことを考えないといけないことになった。鈴木先生には大変お世話になったものの、シュルレアリスムよりももっと別なことをやる以上、そういったことを踏まえながら別のことに手を出しつつそれがきちんと学術的な水準に達する方法はないか、と考えるようになった。そんな折に、いろんなことがあって知り合いになった中田健太郎さんの博論審査でお会いした東京大学の教授の一人、星埜守之先生のことを思い出して「そういえば初対面だったのにすごい馬があった気がする」と思って、それまでの業績を調べ、所属専攻のカリキュラムなど見てみると、僕を受け入れてくれるだろう、きっと面白いことができるだろう、という場当たり的な考えがよぎった。また、知っている人は知っているみねおさんがその専攻にいるということで、説明会に行った後、この全く文学にも言語学にも関係のない卒論を提出することに決めて、試験を受けることにした。

しかし、すでに述べたように学術研究を自分は続けていくことができないと悩んでおり、実際は落ちたら休学するとか、「3月就活」をして自分の向き不向きに関係なく働けるところで働こうと思っていた。一言でいうと、限界に達していた。どこまで行っても、あるのは世界の果てだけだったのだ1

そのため、受からなかった場合の準備を割と進めていた。そうした事情もあり、星埜先生には本来事前に連絡などすべきであったが、そういうことをしないでしまう非礼を犯してしまった。もしも、これから院進を考えている人は必ず事前に連絡をしたり、試験の説明会の時にその人がいるのであれば自分の存在を認知してもらうべきである。

そうこうしているうちに、2016年1月23日となり、院試を受験した。特に苦戦もなく、フランス語はブランショ論の和訳が出てきて、某先生が就任したばかりらしいのにもう試験問題を作ったのかな、などと考えていた。1週間後の29日に合格通知があり、2月15日の口頭審査に向けて準備を進めた。 口頭審査は一言でいうと、「お前なんでここ受けたの?」という極めて真っ当な質問に対する受け答えだった。研究計画書には、科学の大衆化の言説よりも、より科学史に依拠したことをひとまずやる、と書いてしまっていたからだ。面接では、「もともと文学研究してたらこうなったんだ。どうしてかは俺も知らない。だけど、確かに俺はこの専攻でやってることで専門的になりたいし、それでもって文学研究をしに来たんだ」ということを色々な方法を駆使して言うと、その代わりに卒論の中身関する質問が大変なことになった。割と勉強になるとともに、今からすると卒論にその大局的な時代観を全て織り込んだうえでオリジナリティを出せるならすでに査読論文出してるのでは?みたいな質問も多かった。とにもくかくにも、審査は終わり、3月1日に合格した。

困ったのは、星埜先生の元で科学史めいたことをやる必要は一切ないということだった。どうしようかと思ってシュミノーを読み直していた時、ある名前が書いてあった。それがGaston de Pawlowskiの Voyage au de la quatrième dimension だった2。僕はその小説を少しだけ読んで、これはイケるとなぜか思った。そこで、ガストン・ド・パヴロフスキーの研究をします、と星埜先生との面接で言うと、「そんなのやる人いるんだね、いいね!」と笑いながら承諾してくださり、めでたく星埜研究室の所属となった。

修士1年生はまず人文情報学との出会いから始まるが、そのことはまたいずれ詳しく書くだろうからおく。とにかく、モレッティの遠読だけでない、様々な計量的な分析手法がすでに人文学でも利用されていることを知り、とにかく統計学と確率を集中的に勉強し、PythonRubyのプログラミングの教材を何冊かやった。この頃から数学がなぜか好きになり、趣味でブログ記事など色々読むようになった。

パヴロフスキーの小説は奇想天外なエピソードと疑似科学的エッセイの組み合わせで出来上がっているので、計量的分析でひとまず特徴だけ把握して全体をまとまりとして読むのは非常に役に立つだろうと考えて全文をテキストデータにするとともに、雑誌やジャーナリズム研究などについて勉強し始め、パヴロフスキーが扱っている「4次元」に関する文化史的な資料を集め、重要な研究書の精読をするなどした。ただし、2年生は修論に集中したかったので授業をたくさんとった結果、少し忙しくなりすぎた。ただ、専攻の必修で文体論や物語論をやったのを幸いにそのあたりの原著を読むようになったことで、修論を書く基礎体力が上がっていった。ところが、修士2年生は大変なことになった。

まず、文学研究はいつ食いっぱぐれるかわからないので、とにかくすぐに働けるようになるためのツールの一つである免許証をとることにして、2月はそれで潰れた。また、個人的な事情で2回引っ越しをする必要が生じ、じんもんこんと仏文学会での発表準備、その後すぐにやってきた学振提出の締め切りに向けての勉強をしながら4月と5月にかけて申請書の直し、京都での学会発表、引っ越しで金が底をついたことで生活が危うくなったのでバイトを集中的にひと月行う必要が6月に生じ、修論の中間発表があった7月まで集中して取り組むことが思いの外全くできなかった。

2回目の転居先が落ち着いたのはけっきょく8月に入ってからで、本当に修論ができるんだろうかと不安になった。とにかく、9月になってすでにTEI P5に従ったマークアップが完了していた初版と、電子化が手付かずの1923年の決定版の2つを比較するところから入り、仏文学会での発表を発展させ、たぶん10月になって6万字程度の準備ができた。これを敲きに敲いているうちに、パヴロフスキーがブランキの革命の宇宙論的肯定をバージョンアップさせたのではないか、19世紀を通じて議論されていた遺伝とそこから生じる個体の類似性こそ、彼が作品を書くうえでの原理のようなものになっているのではないか、ということなどに思い至って、そのことについて書いた。まだ口頭審査待ちなのでひょっとすると、とんでもない何かをしでかしてるかもしれないが、調査中にパヴロフスキーが1923年の決定版をいつまで修正していたかについて、典拠明記せず参照している科学記事の日付から特定したうえ、そこで依拠している記事の内容から作品を統一的に読んでいく方法を導いているので十分な意義はあると思っている。ところで、次回の予告めいたことをしておくと、学振の申請書で書いた現在の研究は、申請者が読む時点で修論はすでに完成しつつあるものとして読まれることを意識して書く必要があるので実際のところ、マイナーチェンジは非常に多い。例えば、申請書にはある程度計量的分析を行ったと書いているが、論文になるような価値はないと判断してすべて削ってしまった。再び失敗したというわけだ。

学振採用の後に考えたこと

学振はきちんと必要なことが書いてあることが肝要である。ちゃんと調べていないまま適当なことを言うが、おそらく書籍としてモノグラフが一度も書かれていない作家で学振を通したのは極めて稀なことだと思う(ひょっとしたら初めてかもしれない)。今回、それでも通ったのは、どんなことを研究していても、先行研究にひたすら詳しくなること、明確なビジョンを常に描こうとすること、研究成果のアウトプットを繰り返すこと、それらを総合することで、どんな研究をしていようと人文学領域では評価の対象になるということだ 。僕は面接採用だったが、面接フェーズまで行けたのはひとえに求められていることを書いたこと、そしてそれがシリアスな問題提起であったからだと考えている。次のエントリでは実践編として、申請書の具体的なアドバイスを書きたいと思う。それを読んで、自分がどんな研究をしていても意志の続く限りは可能性があると信じてほしい。

ところで、学振採用はまぎれもなく僥倖であった。この採用は、たしかに経済的な余裕を保証し研究に没頭するためになくてはならないものである。ただ、それよりも、学振という裁定は、仕事が仕事に繋がり、研究は新しい研究を生み出すという幸福なサイクルにあるという肯定感を与えてくれる。ようやくひとまずの限界が終わったという感慨がある。


  1. ランボーはだいたいの場合に、読んで面白いことが書いてある。『ランボー全詩集』。

  2. 僕は今のところ、『四次元郷への旅』と翻訳している。リンク先で原文を読むことができる。