南礀中題

いろいろです。基本的にアフィリエイトが多いのでご注意を。

2/19

修論の仏語見直しを主にした。その過程で、審査で指摘された論理的欠陥の生じた理由とそれに対する応答を整理した。早い話、論述にかなり問題がある。果たして3年で博士論文が書けるのか不安になってきた。しかし、フランスに行けば資料アクセスや専門家アドバイスが十全になるのでなんとかなるだろうし、今回は集中して書けたのは実質3ヶ月程度なので仕方ないといえば仕方ない。ここからさらに研鑽をつむこととする。

寝る前にベクトルの復習。ベクトルの微分公式など基本的なことを失念していた。明日はケイリー・ハミルトンまでやりたい。

2/18

有楽町にて開催された大江戸骨董市に赴く。ポストインキュナブラのホラティウス全集の1冊が4.9万円、1523年初版ヨハネ福音書が227万円で販売されていた。真贋不明。いずれにせよ、天日干し状態にされており、最悪の管理体制だった。店の人に由来など問い質そうとしたが、不在。227万円の商品を放っている店主なので、おそらく何を聞いてもわからないだろうと思い立ち去る。

国立博物館に赴き、アラブ展と仁和寺・御室派展鑑賞。どちらも素晴らしかった。

アラブ展では、アラビア半島が肥沃だった旧石器時代から19,20世紀までの尺をとるスケールで、とくに古代南アラビア文字がナバテア文字になっていく過程を碑文とともに実感できるのは感動した。また、オアシスごとの文化の交錯によって生み出されたデザインは特徴的なものばかりでいい経験になった。

仁和寺・御室派は、書画が思ったより多く、後嵯峨天皇の書跡や、空海の細筆による経文など見どころが多かった。また、曼荼羅は趣きがあった。もちろん、いわゆるリアル千手観音もよかったが、仏像に関しては運慶快慶展で満足しきっていたので他はそこまで感動はしなかった。

2/11-17

翻訳直しが続き生産性のなさに精神的に疲弊しているのでせめてものアウトプットとして身辺雑記を記す。

 

13日、本郷で劣モジュラ関数の研究をしている友人に会う。数学について勉強法の具体的なアドバイスをもらう。19世紀後半の数物理、化学を理解するためには学部生レベルの理解が求められるのでその対策のためだ。結果的に、演習問題を解けるようなるにつきるという。やはりそうか、といった感じ。検定試験を受けて自分の実力を相対的に判断するのも良いが、それは結局演習問題の1種なわけだ。

話の合間に、電通大の廃棄本廉価販売で100円で買った室田一雄『離散凸解析』(2001)が僕には理解できる代物ではなかったので贈呈した。

14-15日、身に覚えのない疲れが取れず。なんとか依頼原稿の修正をし続けているが不満が残る。マニュエル・デランダが引用されるのだが、Dlzの既訳に合わせるか、そもそも既存の数物理で一般的に解説されている内容をどの程度訳注などにふまえていくべきか、など検討すべきことが多い。

16日、AppleStore表参道でipadの復元を依頼。MacBookAirに有線でバックアップとアップデートをやっていたが、そちらのアンチウイルスソフトの予測しえない動作か、経年劣化によるポートの問題など指摘される。帰りに駒場に寄り、ミニシンポジウム「マンガ×表象文化論 〜コマ・かたち・リアリティ〜」(https://repre.c.u-tokyo.ac.jp/2018/02/04/431/)の中田健太郎さんの発表を傾聴。その後、上野御徒町に赴き、友人らと歓談。Shobaleader Oneというユニットを教わる。ジャズ要素が強い。

17日、病院付き添いの待ち時間で「狂気の山脈にて」を読む。いろいろ発見あり。

シンポジウム「人文知の明日を見つめて」まとめ

この記事は、人文知の明日を見つめて —メディアの刷新と知変貌—での講演の一部をまとめたものです。私の関心や体力の関係で記述量にはムラがあります。また、会場でレジュメが配布されていなかった関係で、私の補足が多くあります。そのため、発言の正確さが保証できないないので、このブログ記事から文章を引用することを一切禁じます。会場の様子を伝えるものとしてお読みください。

エルキ・フータモ

Erkki Huhtamo, University of California Los Angeles

「ポストヒューマン世界における人文学の役割:メディア考古学の視点から」The Tasks and Trials of the Humanities in a Posthuman World : A Media Archaeological Perspective

近年の終末シナリオないし全てが衰退していくという言説について

  • 読むことの衰退
  • 書籍や新聞の衰退
  • 「人新世」による地球の衰退

また、教師として痛感するのは、生徒たちの文化的基盤が以前と全く異なっていることで、人文学的知識のベースを共有することが難しい。

  • アニメ・マンガ(コミック)の中でそれぞれが好きなものについて深い知識を持っているが、シェイクスピアチャップリンというテレビでも出てくるような一般的と思われている知識が共有されていない。

メディア考古学はそれに対する解決策を提示していると考えている。

それを示すために今日扱う問題点

  1. 現代の社会的現実と文化的傾向が変化していくことによってますます困難になっている人文学の価値というものは私たちの時代において盛り上がることができるのだろうか。
  2. 多かれ少なかれ21世紀の現在と似ているような過去の類似物を集めるという研究にはどんな価値があるのだろうか。
  3. 人文学は現在の困難さを拒絶するべきなのだろうか、それともアイデンティティをもう一度考え直すことで受け入れるべきなのだろうか。

こうした問題を考えるために重要なキー概念としてまずはポストヒューマンを取り上げる必要がある。これは昔から問題になっていて、例えばチャップリンが機械の一部になって見せるような映画あるように、個人が工場といった場所で機械の一部になっている現状があるからだ。

ポストヒューマンを取り上げる理由のもうひとつの参照点。ルネサンスで今の人文学の原型となるようなものが生まれた時に、そこでは全学に精通する人間、世界との調和といったモデルが生まれたが、Da VinciのThe Vitruvian Manなどその典型。現在、ポストヒューマンにおける人文学を考えるのであれば、Thomas Charpentierの"The New Standard"が示唆的と言える。これは、調和からハイブリッドからバラバラな要素への移行へと言える。

こうした観点からの人文学としてもちろんダナ・ハラウェイのサイボーグなどが重要。最近の傾向としては、Francesca Ferrandoのアンチヒューマニズムの概念をまずあげる1。 そこでは、いわゆるAIによる労働代替や、情報技術の発達による人間の知識の蓄積としての人文学の終わりといったことが「自発的な人間の絶滅(Voluntary Human Extinction)」として語られている。Ferrandoのほかに、Rosi Braidottiの『ポストヒューマン』があげられる。そこではヒューマニズムの未来をめぐって、ネオ人文学といった構想が練られている。こうした未来の人文学とは別にどこか懐かしい響きのものもある。それが、Sven Birkerts, The GutenBerg Elegies(1994)やChanging the Subject(2015)。これは衰退していく旧来の人文学における読解の重要性を考えるもの。

こうした人文学のペシミシスティックな未来とは別に現代の情報技術が人文学を豊かなものにするだろうというものがある。それが人文情報学(Digital Humanities)。特に、Anne Burdick他のDigital Humanities(2012, フリーアクセス)の序文は楽観的で希望に満ちている。

人文情報学は以下のような形をとっている。

  • デジタルな学術出版
  • デジタルライブラリやデジタルコレクション
  • テクストマイニング
  • デジタル環境での教育
  • データベース(いわゆるビッグデータの解析)
  • 新しい言説分析(トポス考古学でやっていること)
    • この試みのひとつとしてThe Public Domain reviewという事例があげられる。オープンアクセスの資料のキュレーションであり、エッセイなども充実。

では人文情報学はメディア考古学にどう適合するのか。メディア考古学については、私の翻訳された『メディア考古学』やJussi Parikka, What is Media Archaeology?などを参照のこと。そして、メディアと技術に関する研究は人文学的な傾向のものとポストヒューマニズム的な2つの傾向があり、メディア考古学やトポス考古学は前者に入る。他にも、 Deep Time of the Mediaで提示されているArchaeologyという概念で有名なSiegfried Zelinskiも入る。ただし、それがネガティブなのかポジティヴなのかはわからない。ポストヒューマニズムの方向性としてはもちろんキットラーのテクノマテリアリズムがそう。もはやテクノロジーによって支配される大きな物語を望んでいたかのよう。そして、その弟子のWolfgang ErnstはJussi Parikkaと共著でDigital Memory and the Archiveを出しているが、極端なアンチヒューマニトの雰囲気がある。人間なしで機械の仕組みだけでから考えるという姿勢。

こうした中で、人文情報学の提供してくれる様々なアーカイブスやデータベースを利用したトポス・スタディーズによって文化の中に見られる言説、すなわち人間の思考のプロダクトを見ることができる。例えば、Erkki Huhtamo, Illusion in Motion: Media Archaeology of The Moving Panorama and Related Spectacles, MIT Press, 2013.また、新しい著作では、写真の歴史をメディア考古学の観点から描きなおしている。

ドミニク・チェン

「情報技術による人文知の刷新:知能から自律性の増幅に向けて」Innovation of Humanities with Information Technology: From Intelligence Augmentation To Autonomy Amplification

AIについて

マレー・シャナハン『シンギュラリティ』Technological Singularity, 2015

Is there a compromise position between conservative anthropogenic is mans posthuman fundamentalism?

Evocative Interface

自律的に考えて、作っていくことを支援するものとしての機械学習人工知能

Happiness and Well-being

  • 20世紀に入ってからの再定義
  • 人間の能力の自律性(能力の開花)
  • Well-beingについてのアンケート、心臓ピクニック。
  • 情報社会ではSNSを中心にしてWell-beingがシリアスな問題となっている。
  • シェリー・タークル『一緒にいてもスマホ
  • Nir Eyal, Hooked <=認知心理学的なシステムデザイン
    • Eyalが所属していた研究室の出身者は最近、こうした認知心理学の利用を拒絶。
    • Facebook役員なども離反して、現在の設計を批判。

Article: Aylin Caliskan, Joanna J. Bryson, Arvind Narayanan, “Semantics derived automatically from language corpora contain human-like biases

現在の課題

  • 知能増幅Intelligence Amplification till 1950, ダグラス・エンゲルバート(マウスの発明者)。
  • サピア・ウォーフ仮説に強く影響を受けた。そのほか、Memex構想、サイバネティクス
  • 道具によって知性が規定される、という仮説をエンゲルバートが唱える。
  • これは、情報の冗長性を廃し、効率化するという思想を支えているものである。

しかし、情報の効率性だけで文化的対象を扱う(草稿など)ことはできない。

  • typetrace の開発。
  • 各キータイプ間の時間感覚を計算し、リアルタイムでフォントサイズに反映。
  • 参考:木村大治『共在感覚』
    • 共和的な話し方。水谷信子。日本語における「あいづち」の問題。インターフェイスの応用が可能?

東浩紀

「観光としての哲学、あるいはダークユートピアについて」Philosophy as a Tourism, or on the Dark Utopia

人文学は今後生き残っていくのだとしたら、どのような視座を確保していくか、ということを考えるとアニメなどをポップカルチャーを扱うことは絶対的なことではない。アニメやマンガの分析は古くなる時代が確実にやってくる。

  • ポイント:新しいものがやってきたとき、どうするか?
  • 軽薄さやふまじめさというものが非常に重要。
  • この中間の領域を確保するのが重要だ、というのを論じる。

資本家か国家か、という二極化に抗うこと。

  • 金のあるやつがなにかやるか、国家から補助金をもらってなにかするしかなくなっている。
  • システムを使って別の結果を生み出す。これは情報社会において悪となっている。
  • 検索とは最適化のこと。経路の抹消。

交換の外部の設定としての贈与(公共性、オープン、シェア)。交換の失敗としての贈与。

現代の観光。見たことがあるものを見に行くという構造。反復強迫的な行為。

19世紀におけるふまじめさの拡大。ふまじめさ=楽しさ

  • 現在のテロの対象は楽しさを標的としたもの。本当にテロとは政治的行為なのか?政治的効果以外にみるべきものがあるべきなのではないのだろうか?

反復する行為であるものの、差異を生んでいく。誤配。シュミット的政治的分割に抗うこと。

パネルディスカッション(だいたいの発言)

フータモ 東さんのツーリズム論はとても挑発的であり、刺激的でした。東さんが観光と読んでいる哲学的行為は、メディア考古学と似ている点があると思います。タイムマシンの旅のように、別の時間と場所をめぐる、という行為は観光に似ているからです。インターネットでさまざまな資料をめぐる時に別々の要素を見つけるとき、まさに観光を感じます。また、決まりきったものを見にいくということ、モナリザをわざわざ見にいくこと、他の事例をあげれば、日本のテレビ番組で見たのですが、地方の村で蕎麦を食べるというものでおいしそう!と言っているものもそうですが、それは同じ蕎麦に決まっているわけです。こうしたクリシェが観光にはあります。クリシェを見つけるということが重要になるということです。トポス考古学においては、クリシェを見つけてそれがどんな意味を持っているのかということを研究します。

僕もフータモさんの発表に対して過去への観光という印象を感じていたので同じように思っていただいて光栄です。ところで、マキァーネルの観光についての研究書では、19世紀末のパリの観光ガイドではモルグなどが紹介されていることが言及されています。それは自分たちが住んでいるところでは見ないものです。自分の国の中にいるときには見ないものがいっぱいあるわけです。別の国にいくと、物事を見る網目が粗くなるので見えるようになる。他の国にいくことで、見えなかったものが見えるようになる。これは観光において非常に重要なことです。フィルターバブルの話をチェンがしましたが、それも関係していると思います。

草原 フィルターがなんであったかを見つけるということですね。

チェン なんでもITのせいにされている現状があります。僕が言語から抜本的に考えているのは、まさにフィルターをどうするかということでもあります。僕も東さんの発表に啓発されたのですが、質問があって、メルマガで書いていた「新しい深さ」ということについてです。また、ふまじめさからまじめな観光客へと変わっていくこともあるかもしれないということを思ったのですが、そういうことについて何かお考えはありますか?

答えるのが難しいです。観光客の哲学という本は政治哲学の本です。いまやろうとしていることはメディア論で、直接はつながらないかもしれません。今の時代、視覚メディア優位ですが、僕は実はそうではないのではないかということをそこで考えています。近代では窓と遠近法がメタファーで重要でしたが、いまのインターフェイスでは窓は重なっています。それはどういうことなのでしょうか。アラン・ケイがかつてインターフェイスについて語っていたこととして、粘土のように触れること、と触覚としてとらえていました。ケイが初めてインターフェイスを考えた時、コンピュータのなかに手を突っ込むことができることできるものとして考えたのであり、世界を覗くものでないのです。遠近法ではなくて触覚のモデルで考えることが重要なのではないか、ということです。これが「新しい深さ」ということで考えていることです。かつて映像は触ることはできませんでした。インターフェイスで触覚と写真がつながり、映像もそうです。メディア経験はこうして大きく変わっていて、もしも政治哲学の話につなげるとするのであれば、接触すること、タッチ、かつてなくそれがあらゆる場面で重要だと考えています。

チェン GUIの設計の中でリアクションと呼ばれるものがあって、フォースフィードバックがあるかないかが行為をエンハンスするというのが思い出されます。

インタラクティブというのはそもそも触覚ということだと思います。視覚はそもそもインタラクティブではなく、インタラクティブという概念が入ってきた時にもう触覚的なものだと思うんです。

チェン なるほど。ケイがインターフェイスを考えた時に創作のためにそれを構想しましたが、SNSではフィルターバブルといわれているのは言語の触覚性が問題になっているかもしれません。

草原 伝統的な人文学では、テキストを読むことで知識の蓄積ができていました。人文情報学がそうでしたが、果たして元来のやり方でやっていけるのか、ということです。様々なメディアがあり、私たちがそこでいったりきたりしてるなかで、人文学のやりかたは当然アップデートされるべきだと考えられるわけです。

千野 コミュニケーションはいま単線的ではなくて、複数に分岐しているように思われる。サブカルチャーの中にいる若者は実際の世界と妄想の世界が極めて強く分裂していると思われますし、観光客もそうでしょう。また、団体旅行というものはステレオタイプを増殖するようなシステムであるようにも思われます。

いまのことに関して言えば、観光はとうぜんネガティヴなところがあります。観光についての可能性を新しく指摘したのが僕の著書です。

チェン 千野さんがおしゃった団体旅行を触覚として捉え直すと、寄り道を許容しない団体旅行は単線的できわめて接触が少ないです。ところで、Air&Bnbでは、そこでホストをしている人がいる場合は、地元のお店に連れて行ってくれます。ツーリズムではないアドベンチャーとして接触を求めている人がいると思います。

フータモ いま、文化のあらゆるところでふまじめなことが起きています。私の身近なところでは裸のセルフィを送りあったりすることが問題となっています。寺院で下半身を晒してしてしまったセルフィもそうです。そういう行為は最悪の場合、捕まってしまうわけです。そこで東さんに聞きたいのは、ふまじめの本質とはなんなのでしょう。ふまじめさでは、ソーシャルメディアの中のモデルを何か参照しているのでしょうか。また、東さんがやっているチェルノブイリに行くというダークツーリズムについてもそうでしょう。それはたしかにふまじめさがありますが、ワークショップを開くという教育的要素があります。やはり、ふまじめさの厳密な定義みたいなものが知りたいです。

難しい質問です。例えば、いいふまじめさと悪いふまじめさがある、と述べるとまじめふまじめの分割線を再生産してしまうのでそれはできません。ふまじめさをどのように教育的に使えるかということをケースバイケースに考える必要があると思います。ツアーのあとのワークショップでは、観光中にとった3枚の写真を取り上げてもらって、感想を言ってもらうということをしています。もしもそれなしでプレゼンさせると、それこそクリシェしか言わない。しかし、3枚のスマホの写真を選ばせると、そこに問いが生じて、クリシェでないことを思い出すわけです。また、ワークショップをやるのは、チェルノブイリにいくということは特殊なことなので、ふだんの生活でシェアできないわけです。だからクリシェに回収されないための時間と場所が必要なわけです。ふまじめなものに注目するということは、理論的に定義してしまった瞬間に、ふまじめでなくなっていく。すなわち、実践的に行うことでしか主張にしかならないのです。これが答えになります。

チェン 誤読かもしれませんが、ツールとして人間のふまじめという状態を別の目的に利用しようというものだと考えています。リグレトという匿名掲示板は、一般的に言われているのは匿名掲示板は荒れやすい、ということですが、ここでは無責任に人を励ます場をなんとなく作りたい、というところから始まりました。無責任、つまりふまじめに人を励ますことである程度機能します。設計できるふまじめさもあると思います。

フータモ ありがとうございます。別のことについても話したいです。ふまじめさのクリエイティヴィティというものがあります。パルクールというフリーウォーキングがありますが、UCLAでも多くの若者が興じてます。アンリ・マティスの高価な作品のうえを飛び回っているわけです、彼らは気づいていないでしょうが(笑)。それはストリート文化から始まりました。ロッククライミングのプロダクト化と高額化の結果、パルクールがストリートで生まれましたが、またパルクールというふまじめなクリエイティヴィティがプロダクト化していくのでしょう。

たとえば、ラジカルなアートがプロダクトになると、それはもうラジカルではないと思います。ラジカルと定義され、美術館に収められてしまうともうラジカルではないわけです。中間にこそ、ラディカリティがあるのです。

草原 先日アメリカの日本戦後芸術展で展覧会があって同じ構造がありました。つまり、アートでないものとして提示された前衛がアートの中に取り込まれてしまったわけです。また、日本のメディアアートはまじめじゃないからアートじゃない、と批判されることが非常に多い。アートの中にまじめさが広がっているように思われます。

フータモ Chim↑Pomの渋谷での活動は素晴らしいものがありました。例えば、ドブネズミを捕獲してピカチュウに加工するというものですが、こうしたふまじめな活動は新しいものを生み出しています。

オープンとクローズか、どっちかになっていること、これはアートかそうでないかということをつねに人は考えてしまうわけです。分類して、収蔵するということが持っている不自由さというのも意識しなければなりません。また、touchingに話を戻すと、人間関係は接触によって広がっていくわけですが、これはウィトゲンシュタインの家族的類似性です。接触的な組織のつくりかたです。類似というのものの本質はじつは接触にあると思っているわけです。視覚的に内外をわけるのではなくて、社会だったり考え方をどのように構築するかという問いがあるわけです。合法なデモがあって、非合法なテロの分割線、アートかアートでないかという分割線、それは概念という回収されてしまうものでなく、個別的な接触によって壊していくしかない。僕はチェルノブイリに100人を連れて行きました。それは福島に関する言説に何の影響を与えはしないでしょう。しかし、後者は結局のところ、友敵の理論に回収されてしまうのです。

チェン VR技術の1つの可能性は、接触による影響が広がっていくということです。テレポーテーションのようにしてリアルな体験をしていくことで、メッセージのあり方もかわるでしょう。

100万人を動かすととてもシンプルなことしか伝えられないです。VRなどの技術によって情報の受容の仕方が変わればメディア社会も変わると思います。

フータモ とても面白い議論です。インターネットの時代において、できるだけ小さな規模の集団で話すということです。古い例を挙げてみましょう。まず、ダダです。ダダはスイスのキャバレー・ヴォルテールでとてもラディカルな若者たちによって始められました。これはのちに大きな運動になりました。他にもありますが、それは1950年代の状況主義者(situationist)です。ギー・ドゥボールなどが始めたその運動は非常に小さいものでしたが、その後の10年で大きく広がって行きました。もちろんそれは政治化されシンプルなものとなっていましたが、こうした事例はとても示唆的だと思います。何人かのラディカルな人から大きくなっていく運動というのをどうやってつくっていくのが重要です。ところで、状況主義はラディカルな観光だったと思います。サイコジオグラフィックにパリに関する新しい地図を作っていったのですから。漂流して、さまよって、知らない場所にいくということ。これはいまだに重要だと思います。私も先日やりました。浅草などを江戸時代の地図を見ながら歩いたのです。そして交番で道を聞く時に、それを見せながら道を尋ねたのです。彼らは私たちをBAKAだと思ったでしょう(笑)。しかし、それによって今見ている視点を大きく変えてくれるのです。陣内秀信先生の、東京の古地図を使って運河をめぐるというアイディアが非常に好きです。大きなインスパイアを受けています。

チェン 私もそういったことが大変面白いと思います。GPSでもって絵を描くといったアーティストもいます。また、車の自律走行などにも関係していると思います。自律走行自動車は現在、最短経路の探索が目指されています。しかし、ポジティブフィードバックが起きるためには多少のネガティブがないといけません。ですから、最短経路をめぐり続けることは必ずしもストレスを軽減しないといった事態が起きるかもしれません。ただ、ドゥボールが作っているスペクタクルの社会の映像はあまりにまじめで、つまらないです(笑)

状況主義がきわめて政治化されたのは60年代なのですが、その前はかなりいい加減だったから面白かったんですよね。政治的フィルターをはずさないとわからないです。

フータモ 千野先生に質問があるのですが、アジアの国々でのコミケではみながコスプレを楽しんでいました。あなたはそこにどのような可能性があると考えていますか。彼らは想像世界にひたるためにやっているだけ、キャラを演じるという役割を行っているだけなのでしょうか。

千野 私が感じたのは、サブカルチャーそのものに意味があるかどうか問題ではありません。19世紀以降に近代の価値が固まってきましたが、いまの若者にとってそれが意味を持たなくなるのは、それがサブカルチャーによく示されていることです。それは社会状況が文化に影響を与えていると思います。これに未来があるかどうかもわかりません。こうした議論は、例えばまじめさという価値体系だけがあるんです。つまり、中間項があまりにも多いということなのです。こうした時に問われるのは、「これは許せない」といったものではないでしょうか。これは政治的に恐ろしい問題だと思います。古い問題ですが、非常に新しい問題であります。

学振採用と修士生活

はじめに

学振について書く記事が少ないというのは昔から思っていた。とくに、人文系DC1の人がどのようにして採用されたのかわからないことだらけだった。経済的保証がある程度ある学振採用は、研究に対するモチベーションが高まる副作用もあるので、多くの人文系修士2年生にも挑戦して欲しいと考えている。ところが、基本的に研究室や専攻の人たちが採用されている場合は添削してもらえるが、そうでない人は徒手空拳になりかねない。情報は多角的かつ、多い方が良い。 そこで、今回のエントリではとりあえず自分の研究にいたった理由をまとめる。研究に関する宣伝目的でもあるので、そういうのに特に興味はない人は、そのうち書く具体的な申請書に関するアドバイスの方を読んでほしい。興味のある人は、ResearchGateGithubのページをぜひ読んでほしい。

現在

僕は、東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻に所属している。 言語科学(言語学、音声学、自然言語処理など)と言語態(文体論、物語論など)に分かれている。 そこで、シュルレアリスム運動やマルチニック(カリブ海)文学に詳しい研究者である、星埜守之教授の研究室にいる。星埜先生は最近、ミシェル・ウェルベックH・P・ラヴクラフト──世界と人生に抗って』などを訳しているが、シェニウー=ジャンドロンの主著『シュルレアリスム』をはじめとしてシュルレアリスムにおける極めて重要な訳書を手がけており、最近は『ふらんす』で「もうひとつのニューカレドニア」を連載しており、これも2018年から19年にかけて著作として刊行する予定があるそうだ。

修士生活

話は2015年に書いていた卒論から始まる。 La Nature について研究した。 ところが、もともとはアンドレ・ブルトンの『磁場』をやるつもりだった。ブルトンの作品のすべてをオートマティスムに回収する読み自体は実は無理があること、そしてそもそものオートマティスムの理論についても2000年代に入って徐々に見直されてきていることを比較的簡単に調べることができたのでまぁ書くのは少しフランス語に苦労するくらいだろうと甘い見通しを持っていた。 日本では蓮實重彦のおかげでなぜか有名なマクシム・デュカンの初期詩篇やその活動のように、『磁場』の中には、生活に浸透していく科学技術のモチーフが散見されている。先のオートマティスムの議論を踏まえつつ、かなりまとまった作家研究があるので、磁場の先行研究を適当にまとめたうえで、リシャールふうのテーマ批評を用いて、窓ガラス、工場、速度というテーマで一つの作品解釈を打ち出そうとした。

しかし、人生と同じように、何一つうまくいかなかった。夏休みに入る頃に泥沼化してしまった。科学技術と生活、という広すぎるパースペクティヴのせいで、パリの都市の歴史、衛生環境史、行政史、科学教育史を学び、そもそもこれでまとめて作品解釈に適用できる視座を納得できるまで突き詰める必要があると感じてしまったのだ。そうして、科学史・科学技術史・科学哲学を文学研究のために方法論的に落とし込む必要があると感じた。

そのなかで、特に科学教育史が重要だと考えて、科学の大衆化というキーワードの重要性を理解し始めるようになった。Nicole HulinやBruno Belhosteなどの行政の側からの科学教育史の変遷を見ているうちに、19世紀には私たちが考えるような検定教科書のようなものはなく、一般向けの概説書をそのまま使っている場合があるといったことを知る。また、科学雑誌が相次いで刊行されていることが科学の大衆化を後押していたことを知った。論文を30本くらいサーヴェイして、表にまとめた。

そうした調査を通じて、科学雑誌の中で La Nature がとくに売れていたし、作家たちにも影響を与えたことを知った(ジャリ、ルーセルとか)。加えて、Manuel Chemineuが La Nature を主題に研究書を執筆していることを知った。シュミノーはフーコーの系譜学の手法を応用することで、18世紀の啓蒙主義時代から第1次世界大戦の前までの科学の大衆化の言説のある一定の型を同定していき、図版にも同様に行われていたということを証明しようと試みていた。言説を形作る点において、単純にジャーナリズム研究が反映されていないな、もしかして科学ジャーナリズムの起源ってこのあたりにあるのかな、と漠然と考えた。 卒論は結局、シュミノーの手法の整理し、ラ・ナチュールの実際の記事の分析から「娯楽性」や「スキャンダル性」といった側面が削ぎ落とされていることを指摘することで、言説分析の不備を指摘した。また、1900年代に入ってからは記事の執筆人もほとんど入れ替わっていることから、1900年代においてラ・ナチュールの中心人物となっていたのは誰なのかを調べ上げて、Henli Coupinといったアカデミズムに席を置きながらも科学記事の執筆を旺盛に行なっていた人物たちを計量的な分析を通じて発見し、それがどのような言説空間を作っているのかということを素描した。

というわけで、結局のところ卒論とは失敗の作業だった。かなり学術研究のセンスがないのではないかと思い悩みもしたが、とりあず指導教官だった鈴木雅雄先生は褒めてくれた。しかし、卒論が終わった段階で次のことを考えないといけないことになった。鈴木先生には大変お世話になったものの、シュルレアリスムよりももっと別なことをやる以上、そういったことを踏まえながら別のことに手を出しつつそれがきちんと学術的な水準に達する方法はないか、と考えるようになった。そんな折に、いろんなことがあって知り合いになった中田健太郎さんの博論審査でお会いした東京大学の教授の一人、星埜守之先生のことを思い出して「そういえば初対面だったのにすごい馬があった気がする」と思って、それまでの業績を調べ、所属専攻のカリキュラムなど見てみると、僕を受け入れてくれるだろう、きっと面白いことができるだろう、という場当たり的な考えがよぎった。また、知っている人は知っているみねおさんがその専攻にいるということで、説明会に行った後、この全く文学にも言語学にも関係のない卒論を提出することに決めて、試験を受けることにした。

しかし、すでに述べたように学術研究を自分は続けていくことができないと悩んでおり、実際は落ちたら休学するとか、「3月就活」をして自分の向き不向きに関係なく働けるところで働こうと思っていた。一言でいうと、限界に達していた。どこまで行っても、あるのは世界の果てだけだったのだ1

そのため、受からなかった場合の準備を割と進めていた。そうした事情もあり、星埜先生には本来事前に連絡などすべきであったが、そういうことをしないでしまう非礼を犯してしまった。もしも、これから院進を考えている人は必ず事前に連絡をしたり、試験の説明会の時にその人がいるのであれば自分の存在を認知してもらうべきである。

そうこうしているうちに、2016年1月23日となり、院試を受験した。特に苦戦もなく、フランス語はブランショ論の和訳が出てきて、某先生が就任したばかりらしいのにもう試験問題を作ったのかな、などと考えていた。1週間後の29日に合格通知があり、2月15日の口頭審査に向けて準備を進めた。 口頭審査は一言でいうと、「お前なんでここ受けたの?」という極めて真っ当な質問に対する受け答えだった。研究計画書には、科学の大衆化の言説よりも、より科学史に依拠したことをひとまずやる、と書いてしまっていたからだ。面接では、「もともと文学研究してたらこうなったんだ。どうしてかは俺も知らない。だけど、確かに俺はこの専攻でやってることで専門的になりたいし、それでもって文学研究をしに来たんだ」ということを色々な方法を駆使して言うと、その代わりに卒論の中身関する質問が大変なことになった。割と勉強になるとともに、今からすると卒論にその大局的な時代観を全て織り込んだうえでオリジナリティを出せるならすでに査読論文出してるのでは?みたいな質問も多かった。とにもくかくにも、審査は終わり、3月1日に合格した。

困ったのは、星埜先生の元で科学史めいたことをやる必要は一切ないということだった。どうしようかと思ってシュミノーを読み直していた時、ある名前が書いてあった。それがGaston de Pawlowskiの Voyage au de la quatrième dimension だった2。僕はその小説を少しだけ読んで、これはイケるとなぜか思った。そこで、ガストン・ド・パヴロフスキーの研究をします、と星埜先生との面接で言うと、「そんなのやる人いるんだね、いいね!」と笑いながら承諾してくださり、めでたく星埜研究室の所属となった。

修士1年生はまず人文情報学との出会いから始まるが、そのことはまたいずれ詳しく書くだろうからおく。とにかく、モレッティの遠読だけでない、様々な計量的な分析手法がすでに人文学でも利用されていることを知り、とにかく統計学と確率を集中的に勉強し、PythonRubyのプログラミングの教材を何冊かやった。この頃から数学がなぜか好きになり、趣味でブログ記事など色々読むようになった。

パヴロフスキーの小説は奇想天外なエピソードと疑似科学的エッセイの組み合わせで出来上がっているので、計量的分析でひとまず特徴だけ把握して全体をまとまりとして読むのは非常に役に立つだろうと考えて全文をテキストデータにするとともに、雑誌やジャーナリズム研究などについて勉強し始め、パヴロフスキーが扱っている「4次元」に関する文化史的な資料を集め、重要な研究書の精読をするなどした。ただし、2年生は修論に集中したかったので授業をたくさんとった結果、少し忙しくなりすぎた。ただ、専攻の必修で文体論や物語論をやったのを幸いにそのあたりの原著を読むようになったことで、修論を書く基礎体力が上がっていった。ところが、修士2年生は大変なことになった。

まず、文学研究はいつ食いっぱぐれるかわからないので、とにかくすぐに働けるようになるためのツールの一つである免許証をとることにして、2月はそれで潰れた。また、個人的な事情で2回引っ越しをする必要が生じ、じんもんこんと仏文学会での発表準備、その後すぐにやってきた学振提出の締め切りに向けての勉強をしながら4月と5月にかけて申請書の直し、京都での学会発表、引っ越しで金が底をついたことで生活が危うくなったのでバイトを集中的にひと月行う必要が6月に生じ、修論の中間発表があった7月まで集中して取り組むことが思いの外全くできなかった。

2回目の転居先が落ち着いたのはけっきょく8月に入ってからで、本当に修論ができるんだろうかと不安になった。とにかく、9月になってすでにTEI P5に従ったマークアップが完了していた初版と、電子化が手付かずの1923年の決定版の2つを比較するところから入り、仏文学会での発表を発展させ、たぶん10月になって6万字程度の準備ができた。これを敲きに敲いているうちに、パヴロフスキーがブランキの革命の宇宙論的肯定をバージョンアップさせたのではないか、19世紀を通じて議論されていた遺伝とそこから生じる個体の類似性こそ、彼が作品を書くうえでの原理のようなものになっているのではないか、ということなどに思い至って、そのことについて書いた。まだ口頭審査待ちなのでひょっとすると、とんでもない何かをしでかしてるかもしれないが、調査中にパヴロフスキーが1923年の決定版をいつまで修正していたかについて、典拠明記せず参照している科学記事の日付から特定したうえ、そこで依拠している記事の内容から作品を統一的に読んでいく方法を導いているので十分な意義はあると思っている。ところで、次回の予告めいたことをしておくと、学振の申請書で書いた現在の研究は、申請者が読む時点で修論はすでに完成しつつあるものとして読まれることを意識して書く必要があるので実際のところ、マイナーチェンジは非常に多い。例えば、申請書にはある程度計量的分析を行ったと書いているが、論文になるような価値はないと判断してすべて削ってしまった。再び失敗したというわけだ。

学振採用の後に考えたこと

学振はきちんと必要なことが書いてあることが肝要である。ちゃんと調べていないまま適当なことを言うが、おそらく書籍としてモノグラフが一度も書かれていない作家で学振を通したのは極めて稀なことだと思う(ひょっとしたら初めてかもしれない)。今回、それでも通ったのは、どんなことを研究していても、先行研究にひたすら詳しくなること、明確なビジョンを常に描こうとすること、研究成果のアウトプットを繰り返すこと、それらを総合することで、どんな研究をしていようと人文学領域では評価の対象になるということだ 。僕は面接採用だったが、面接フェーズまで行けたのはひとえに求められていることを書いたこと、そしてそれがシリアスな問題提起であったからだと考えている。次のエントリでは実践編として、申請書の具体的なアドバイスを書きたいと思う。それを読んで、自分がどんな研究をしていても意志の続く限りは可能性があると信じてほしい。

ところで、学振採用はまぎれもなく僥倖であった。この採用は、たしかに経済的な余裕を保証し研究に没頭するためになくてはならないものである。ただ、それよりも、学振という裁定は、仕事が仕事に繋がり、研究は新しい研究を生み出すという幸福なサイクルにあるという肯定感を与えてくれる。ようやくひとまずの限界が終わったという感慨がある。


  1. ランボーはだいたいの場合に、読んで面白いことが書いてある。『ランボー全詩集』。

  2. 僕は今のところ、『四次元郷への旅』と翻訳している。リンク先で原文を読むことができる。

言語態研究会ワークショップ 第一回研究発表

〈文芸誌を再考する〉 バルザックと文芸誌の詩学《序》

発表者 谷本道昭

* これは2017年12月27日に言語態研究会ワークショップにて発表された内容を執筆者(佐藤正尚)の補足によって公開したものです。よって言語態研究会の公式ページではありませんし、内容に関して間違いや不適切な表現がある場合、すべて執筆者の責任となります。また、興味関心のあるかたは、言語態研究会ホームページにご連絡ください。


概要

出版史研究と文学史研究は徐々に合流し始めたが、作品解釈において出版史の研究をどのような形で理論的 に寄与させるのかについてわからないことが多い。また、他の国や地域における出版史と作家や作品との関 係を知ることも今後は大いに役に立つと考えられる。言語態研究会では、他にもいくつかテーマに基づいて 活動しているが、主に出版史と作品解釈の関係を考えるためのワークショップを継続的に開いていく予定。

報告

フランスでは、出版史研究は90年代に整うようになった。2000年代になるとインターネットの登場で、19世 紀前半の新聞雑誌へのアクセスが容易になり、研究が広がる。発表者は専門領域がバルザックなので、バル ザック研究の状況などを踏まえつつ報告があった。

バルザックの活躍し始めた時代の出版史を概観する前に、彼がの活動の場となっていった文芸誌、すなわち la revue littéraire の、revue がそもそもどのような意味なのかを確認しておく。revue が雑誌を意味するようになったのが19世紀前半からであることは、アカデミーフランセーズ辞典第6版(1832-1835)からうかがえる。それまでは、見回り、視察、綿密な探索などを意味した。定期刊行物の意味として定義されるようになるのは、エミール・リトレ仏語辞典(1873-1877)あたりからである。

では、フランスの出版史の大まかなところを見ていく。基本的に、フランスの出版の歴史の起点は、フランス革命に求められる。1789年に宣言された『人間と市民の権利の宣言』での第11条には「法によって定められている自由の濫用にあたらない限りにおいて、自由に話し、書き、印刷することができる」とあり、これが出版の全面的な自由の宣言と捉えられ、19世紀を通じての出版の発展の起点となったとされる。ところが、「法によって定められている自由の濫用にあたらない限りにおいて」の文言が示唆しているように、あらゆる出版物は警察による検閲によって管理されていた。そして、その体制は杜撰なものだったことが報告されている1。その後、ナポレオン帝政期に入ると、検閲を撤廃する代わりに、『フランス書誌(Bibliographie Français)』に書誌情報を乗せることで出版物をコントロールするようになった。

1820年代に入ると、政治新聞がブームとなり、以下のような新聞が相次いで刊行された。 - グローブ Le Globe - 年間購読料48fr 週3回発行なので少し安い。 - サント・ブーヴが評論を執筆していた。 - ジュルナル・デ・デバ Journal des débat - 年間72fr 当時の水準では少し高級。 - コンスティチュショネル Le Constitutionnel

この他にも、プチ・ジュルナル(小新聞)と呼ばれる少し判型の小さな非政治的な内容の書かれた新聞2が発刊されていた。これらには、韻文を中心に文学作品が多く掲載されていた。

このようにフランス革命以降の出版が流行していくこととなるが、その流れは一旦頓挫することとなる。それは、1830年七月革命の後、王政復古期によって出版事業に対する締め付けが強化されたためである。事前認可による検閲が復活し、その後、定期刊行物の出版の自由を禁止するようになった。すると、抗議文がThiers, Cauchois-Lemaire, Châtelain, Rémusat, Bohainといったジャーナリストによって起草され、リベラル派『ナショナル』誌に掲載された。

この頃、ジャーナリズムの世界でも、リベラル派と王党派(ユルトラ)が対立し、文学者たちもそうした分布図に一致した派閥を形成していた。文学史ではよく知られているように、19世紀前半のフランス文学はロマン派(ロマン主義)と呼ばれる潮流を形成していた。ユルトラを代表する作家としてヴィクトル・ユゴーを挙げることができるが、ユルトラはナポレオン帝政期に登場してきた新人を多く起用することで新しい勢力を作っていった。いわゆるリベラル派はその作品の内容など様々な理由から、ユルトラとそれが評価する新派と激しく対立した。ただし、ベニシューがロマン主義の趨勢を描いたように3、リベラル派のロマン主義が中心となっていく。

ところで、出版史は歴史的・政治的・文学的な観点の他にメディアの観点からもその考察が求められている。それは、印刷方法の変化であったり、インクや紙の原材料の変化であったりするが、今回はとりわけ判型の変化が重要となる。現在の日本でも、文芸書単行本は四六判、学術書は菊判で製本されており、とくに前者に関して、必ず文庫本ではなくてまず単行本から出版するという風習があるように、判型はその国の出版史を反映している。判型は時代によって基準となる大きさ自体はまちまちなので、基本的に比例によって判型は区別される。具体的な呼称は以下の通りである4

  • 一枚の紙 単位は「葉」(feuille)
    • 1ページ
  • 二つ折り (フォリオ folio)
    • 表裏を含めて4ページ
  • 四つ折り in-4° (クアトロ quarto)
    • 8ページ
  • 八つ折り in-8° (オクターボ octavo)
    • 16ページ
  • 十二折り in-12° (ドゥーズ douze)
    • 24ページ

先ほど日本の例をあげたが、例えば、Journal といえば大きな判型(フォリオないし四つ折り)が定番だった。19世紀の作家にとって、十二折りより八つ折りの方が権威の高いものだと感じられた。

出版史に戻ってみると、1830年代から新聞から雑誌への大きな違いは判型の違いである。初の文芸雑誌、『パリ評論(Revue de Paris)』(1829-)は八つ折りで、非政治的(apolitique)という特徴があった。『パリ評論』の編集長Louis Véronの考えでは、文芸誌を、政治新聞に掲載されていた文学作品は、狭いサロン的な閉鎖性があり、政治的な生真面目さがあった。記事の多くが匿名であった。『パリ評論』はそれに対して、非政治的で、真面目さよりも小説としての面白さを重視し、記事には全て署名がつくと宣言した。

詳しく『パリ評論』の出版形式をみてみよう。十二折りでなく、八つ折り16ページ×4の64ページそれが月4回出て、製本すると256ページの本となった。今読んでも遜色のない活版技術で、年間購読費用は80frかかった。この判型が『パリ評論』の成功だったと言われているが、値段の高さから階級の高い人々に読まれていた。また、女性を読者対象としていた点でもそれ以前の政治新聞から大きく分け隔てられていた。これ以降の文芸雑誌の判型は全て『パリ評論』と同じ八つ折りで刊行された。『パリ評論』の成功の秘密は、The Edinburgh ReviewThe Quarterly ReviewRevue britannique といったすでに評価を得ていた海外雑誌を参照し、国内では Le Mercure de France au XIXe siècleJournal des débatLe Globe などを参照することで、受け入れやすい紙面づくりに配慮していた点が考えらえる。その後、1831年には『両世界評論(Revue des deux mondes)』が同じような内容で刊行され、年間購読料は40frという安さであり、『パリ評論』と同じく海外雑誌や国内雑誌の美点をうまく組み合わせ、人気を博していった。

文芸誌では、主に散文作品、すなわち小説が掲載されていたが、ここにきて新しい形式の小説が流行することになる。それがコント(conte)と呼ばれる形式である。コントは日本語では短編作品と呼ばれるものの、その長さは、オクターボで2葉と1/2、すなわち40頁ほどの長さなので、日本語の意味する短編よりかは多少長いものと言える。また、報告者の研究対象であるバルザックは、1832年に次のような手紙を『パリ評論』編集長のAmédée Pichotとやりとりしている。

ひとつきで2葉と1/2を超えてしまったら、私たちは困ることになるでしょう。他の寄稿者にも同じようにページが必要だからです。はっきり言えば、作者の能力がどれほどのものであれ、2葉を超える記事はほとんど読まれないのです。(Pichot)

コントだけを書くということについては、たとえ私の考えではコントが、それも邪説なのかもしれませんが、文学の最も貴重な表現であるとしても、私はもっぱらコント屋であることを望んではいないのです。私の天命は別のところにあります。(バルザック5

バルザックがこの頃執筆していた小説の代表作として『あら皮』を数えることができるが、『あら皮』の長さは現在の私たちにとって短編という長さではとうていありえない。このことからわかるように、コントというのは当時の文芸誌の状況に規定されいた文学形式であり、それはバルザックがコント屋=Conteurとして活動していた時期に作品解釈に際しても影響してくるのではないのだろうかと考えられる。また、バルザックはこの時のやり取りをきっかけに『パリ評論』と決裂してのちに人間喜劇を代表とする作品群を描いていくことになるのだが、Conteurとして文芸誌黎明期に活動していた頃はバルザック研究で焦点が当てられることがない。この点について報告者は博論で議論を展開しているが、さらなる研究が必要だと考えられる。

最後にバルザックのこの頃の活動歴を見ておこう。バルザックは1835-1838年にかけて Chronique de Paris といった雑誌を運営していた。また、文芸誌が成功していくと大手書店が倒産していったのを目の当たりにしたバルザックは、「全国予約購読者協会(La Société d'abonnement général)」を考案することで新しい書籍販売の形式を考えた。その背景には、高級な書籍を読む人は少なく、借りて読むものであり、著作者に金銭が払われることがない場合があるといった流通と著作権管理の問題があった。バルザック小新聞で活躍していた経験から全国予約購読者協会を実現しようとしたが、試みは頓挫した。

質疑応答


Q.文芸誌と新聞投稿を両方をしていた人たちもいると思うが、どのような関係があったのか。

A.フランスの場合は明確で、時系列でメインをしめる媒体が大きく変わった。1800年から1830年までは新聞の時代、1830年から1836年は雑誌の時代、1836年以降は小説日刊紙(Roman Feuilleton)の登場によって新聞の時代に戻る。

Q.結局、草稿やゲラの直しはどこまでみるべきか。

A.当時のフランスでは植字工の権限が強く、教養もあったため、文法的なミスや表記の統一などを兼ねていたこともった。ゲラまでの異同を見ても、最終的な変更は完全には追い切れない。そして、調べてみても作品には影響にあまり影響が出ない場合もあるので、ケースバイケースで筋が通るような考えが必要。


  1. M. Le baron Locré, Discussion sur la liberté de la presse, la censure, la propriété littéraire, l'imprimerie et la libraire, qui ont eu lieu dans le conseil d'état pendant les années 1808, 1809, 1810, 1811, Paris, Garnery, 1819.

  2. 出版史家のMarie-Ève Thérentyは、小新聞は直接ではないものの、風刺によって政治的話題を婉曲に扱っていたと指摘している。

  3. ポール・ベニシュー、『作家の聖別―フランス・ロマン主義〈1〉一七五〇‐一八三〇年―近代フランスにおける世俗の精神的権力到来をめぐる試論』、水声社、2015。

  4. 詳細はフランス語版 wikipediaを参照のこと。

  5. 書誌情報欠落につき調査中。 

レポート:ワークショップ「オーギュスト・コントの2つの顔 メアリー・ピッカリング『オーギュスト・コント伝 ― 人と思想』を読む」

はじめに


ワークショップ「オーギュスト・コントの2つの顔 メアリー・ピッカリングオーギュスト・コント伝 ―人と思想』を読む」は法政大学市ヶ谷キャンパスポアソナードタワー25階C会議室にて、フランス語と英語によって行われた。20世紀前半に活躍していた作家・ジャーナリストだったガストン・ド・パヴロフスキー(Gaston de Pawlowski)が執筆した博士論文でコントの社会学を批判しつつも、いわゆる「科学の限界」を引き受けていたので、僕はコントの哲学の全体像について関心があっり、このコロックに参加する運びとなった。諸事情あってコロックの終わりまでいることが叶わなかったが、聴取した発表の様子とレジュメの内容について簡潔にレポートしたい。

各発表


平井正人氏(東京大学・JSPSフェロー)の発表 « Similitude et Succession » では、次のようなことが発表された。一般的にコントの法則概念はヒュームの法則の定義である、継起と類似から借りてこられているとされている。しかし、ピッカンリグが指摘しているように、この点について文献学的な確証が持てない。平井氏はその点を精査し、コントが所蔵しているヒュームのフランス語翻訳を引き合いに出す。ヒュームの法則概念で類似は可能性を論じるものだったのに対して、コントは明らかにゆるぎない確信(certitude)を論じるためにこの語を用いていた。ところで、その議論の足がかりとして、平井氏はコントの実証哲学では、法則概念がブランヴィル(Henri-Marie Ducrotay de Blainville)の動的/静的(dynamique/statique)に由来しているという考えを示していたのが特に興味深かかった。ディスカッションの場面では、ヒュームとの関係についての事実確認から始まり、ヒュームの動物から直観を引き出すことについてのコントとの関係などの議論が交わされた。

次に、村松正隆氏(北海道大学・准教授)の発表 "Influence of Ideologists on Auguste Comte" では、冒頭で発表準備期間が極めて短かったことがエクスキューズされたものの、かえって多方面から質問がなされる生産性の高い発表となった。その発表の内容は次のようなものだった。19世紀フランス哲学の常識として、コントがイデオロジストたちに反対して、例えば、過度な還元主義的な態度としてその形而上学を批判していることが知られている。その一方で、村松は「共感」(sympathy)というキーワードを提示することで、コント、Destutte de Tracy、Cabanis、ルソーをひとつの枠組みに位置付ける試みた。質疑では、内容について補足的な意見が交わされ、活発な議論となった。「同情」に関する生物学史からの質問が投げられ、ピッカリング氏は最近の利他性に関する生物実験の紹介(おそらくこのマウス実験のことかと思われる)があり、『道徳感情論』も村松の議論の俎上にあったことから、ピッカリング氏はアダム・スミスにおけるエゴイズムと利他性に関する質問をした。

石渡崇文氏(法政大学)は、« Entre l’individu et la société : l’anthropologie d’ Auguste Comte »でビスヴァンガーのフロイト批判の内容からコントとフロイトのhumanitéに関する境界線を人類学に見出し、コントの人類(humanité)概念に別の角度から分析する論点を示していた。

メアリー・ピッカリング氏は、 « Consdération sur la ‘révolution’ dans la pensée d’Auguste Comte : La place des sciences dans son évolution intellectuelle » と題して、コントの知性の進化論をめぐる論考を発表した。人間の知性が発展するに従って、利他性が高まり、宗教が人間の知的活動を規定するようになるというコントの知性の考察を彼の境遇と著作を相互に踏まえることで、政治はコントにとって精神の問題だったことを明らかにしていた。

まとめ


全体的にボリュームのある議論があり、専門性が高かった。個人的な関心としては平井氏の発表におけるブランヴィルの重要性がコント以外の実証主義者たちにも知られていたのかどうかである。もしもそうであれば、パヴロフスキーが博士論文の中で哲学は「動的な解決(solution dynamique)」ができるとしていることの意味が新しく読み直せる可能性がある。