南礀中題

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『現代思想』2019年1月号の千葉・小泉・仲山鼎談を読んで

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まだ学部生だった時分に,ひふみさんに話をもちかけて同人誌にインタビュー(というか対談記事.「中華鍋で言葉を焼く」『Mare』,第1号,2015年.)を載せさせてもらったのは,『現代思想』2015年6月号の「研究手帖」に「そこにある相関主義」というエッセイをひふみさんが寄稿していたのがきっかけだった.2010年代以降に同人誌や批評活動で目立った活動をしていたうちのひとりだったひふみさんと何で知り合ったかはもうよく覚えていないのだけれど,今回はいよいよ鼎談記事が載せられていたので感慨もひとしおだった.内容はというと,この3人ならまぁこういう話になるだろうな,という話の意図もよくわかる話であり,私にしても日頃からそう考えていたことだったので,そういう意味では斬新な事柄はなかったのだが,こうした内容をしゃべる程度のことがアカデミズムにおいて明確にある立場をとってしまう,というメタメッセージそのものに,身につまされるものがあった.とはいえ,久しぶりに面白い鼎談を読むことができたのは新年に向けての良い露払いとなった.小泉さんのある種のあっけらかんとした科学主義の表明や,意味のない無意味を儀礼において再考し,精神分析もある程度担保する千葉さん,ブラシエへの共感と未来において心はどうなっているのかをホラー的経験論によって基礎付けていくひふみさん,という三者の掛け合いはなかなか見応えのあるものだった.私も,いくつか気になってしまったところがあるので,とくに整理しないで書いていく.

フィッシャーとヴィールの自殺とミシェル・ウエルベック

冒頭のほうで終末論サブカルチャーの文脈から出てきたSRの話がなされ,矢継ぎ早に本質主義回帰の保守派の科学主義からの帰結としての分離主義,そしてハーシュマンのExitへと快刀乱麻を断つくだりには感心した.ただし,そのあとでポスドク問題にフィッシャーとヴィールの自殺が回収されているだけなのには,少し議論をしたくなった.

というのも,終末論的美学とExitが交わるところにはロマン化された自殺と単なる自殺があるからだ.ロマン化された自殺とは,ロマン主義以降の典型となっている自殺行為のことを指している.単なる自殺は,たとえば薬物乱用による判断力低下や,生まれつきセロトニン分泌がうまくできないために,社会的圧力に直接的な影響を受けやすくなり自死に至るといった様々な器質的要因のことを言っている(それゆえ,単なる自殺のほうには,他の障害と同じように,社会的福祉やケアを援用すべきという立場を私はとっている.私自身で言えば,自殺せずに今日まで生きているのは,単に器質的な要因だと思っている).他にきちんとした術語があるだろうが(というか,ロマン化された自殺といっているものも,私が文学研究者だからそういうものがあると思っているだけで,本当は存在しないのかもしれない),本題でないのでそれは措く.私がここで言いたいのは,リアルなニヒリズムやリアルな終末,あるいはここからの本当のイグジットとは,どこか別の場所にいくことでなく,生の切断であり,脱出である.つまり,2つのうちのどちらかの意味での自殺である.

私がこうした自殺をめぐる終末論的課題にこだわるのは,ミシェル・ウエルベックが最初の頃にやっていた長編はすべてこのことについて描いているからだと考えているからだ.近代化された黙示録的世界観である終末論は,資本主義やユートピア思想史などから理解することができるが,ウエルベックは世界を滅ぼすほうではなくて自己を滅ぼしながら世界を滅ぼす世界を描くことによって,世界像を描く終末論に異なるアプローチを与えたと言える.ダーク・エンライメント一派が敬愛しているらしい『闘争領域の拡大』は,「闘争領域」という資本主義的帰結としての「非モテ」という終末論を描き出す主人公に「人生の目的は達せられなかった」と通告することで実は自己の滅亡の話であったことを示す物語であり(つまり,ラファエルが単なる道具になってしまっているあらすじのホラーさにこそ注目しなければならい),『素粒子』の兄弟のうち,ミシェルの生殖からの愛の分離というテーマに目を奪われがちだが,これはセックスにしか人生の意味を見出せなくなっているブルーノの陳腐さを自己の滅亡の物語として整理するために必要なプロットだと言える.『プラットフォーム』では,主人公は自殺しているものの,観光を資本主義自体をテーマにしているため,私はのちの『地図と領土』や『服従』につながる系譜の最初の1冊だと考えているのでここでは一旦措く.ウエルベックに終末論3部作があるとすれば,『ある島の可能性』が最後の1冊になると考えている.コメディアンが新興宗教に入信してクローン技術で永遠の生を得る話だが(ここでは紆余曲折を省く),物語の最後で描かれる風景は典型的な終末論的世界である.そして,「ある島の可能性」は au milieu du temps (これは前後の文脈を考えると単に「瞬間」のことであるとも言えるが),すなわち永遠を流れる時間の中心にあり,主人公はそのことを察しながら,水面に漂い死んでいく(と思われる).つまり,現在の人間たちの滅んだあとに,もう一度自らを滅ぼすことで世界の滅び=永遠を相対化しているのだ.いまは直感で書いているので終末論とウエルベックの関係をまだ十分に整理しきれていないが,おおよそこんなことだと思っている.そういうわけで,『服従』を私はあまり評価していない(なによりも世界からフランスへと話のスケールがかなり小さくなってしまった).また,来年の1月にはウエルベックが新刊『セロトニン』を出すそうだが,タイトルからしてもおそらくまた自殺が関係してるだろうとは思う(そういえば,『地図と領土』では主人公の父は自殺していた).これを読んでまた色々考えを検討しようと思う.

ということで,終末論の文化の一端に回収されてしまうSRよりも,私としてはこの生からの離脱を描き続けるウエルベックのような作家に注目しているというのが結論になるのだろうか(無計画に書いているので落とし所がよくわからない).ひふみさんは,私と違ってホラーにこだわりつづけるのも,別のアプローチなので,非常に得心がいくし,そもそも私もようやく最近になってホラーをやることの真意が理解できるようになった.そして,鼎談の流れが意味するのは,生きている間は生きているのだから,生きている状態での切断と離脱をめぐって考えるべきということなのだろう.

最後に,付け加えておくと,ひふみさんが「イグジット・スタイルの哲学者のモデル」を打ち出すと宣言している点には完全に同意している.たとえば,最近の話題でいえば,ゲンロンの騒動についても,ゲンロンの存続のために,これからもゲンロンの出版物は買い支え,何らかの形で協力したいということを私は明言したい.そして,私自身,Anywhere out of the world の帰結として,アウターヘヴンを作りたいと思っている.それはaftermath entertainment とは別の名前になるだろう。

反人文学

途中で,反人文学というフレーズが小見出しに用いられていたが,ここでは主にポスドク問題や,左派リベラルの抱える欺瞞の抉剔といったことが話されていた.そういった話であるのであれば,私はこの小見出しはよくわからないな,思った.

というも,人文学と呼ばれているものの中で考えられているものは時代が変われば反人文学にすぎないと私は勝手に思っているからだ.例えば,かつてラヴェッソンがやったような19世紀フランス思想史総括の中で目を引くのはやはり魂論争である.これは現在でいえば心の哲学のようなものなのだが,それと同じような問題を考えるうえでまず魂の実在について論じることが人文学だったわけだ.今では,魂や霊の実在を規定ようとすれば,スピリチュアリズムといって批判されるのは当たり前だ.とはいえ,ヘーゲルが惑星の軌道計算をしていたように,最新の科学的常識を自身の哲学の基盤とするのもまたごく自然なことなので,現代では魂について概念史的アプローチや文化史的アプローチをのぞいて誰も真剣に取り組まないのも哲学的であり,結果的に人文学的である.

ところで,百花繚乱の21世紀初頭の一連の思想にせよ,あと100年もすれば二度の大戦(それどころか,第2次世界大戦は核エネルギー利用の起源として語られるようになり,第1次世界大戦と理念的に切り離される可能性もありえる)が起きたあとの最初の100年の思想史という15ページ程度の概説か,新書程度の長さの本の中で誰が書かれるかの話でしかないだろう.もちろん,100人規模で執筆され,「死ぬまでに読むべき1000人の思想家」といったノリで,100年後のトレンドに合わせたタイトルになるのかもしれないし,というかすでにウィキペディアもあるのでそれをまとめるウィキが生まれるといったように,いくらでも例外はありえる.ただし,これからもっと影響力のある思想家が登場すれば,多くの運動もまた注釈にその名前が挙げられるかいなかでしかないかもしれない.しかし,そうした未来を予見しつつポテンシャルを汲み取っていこうとするところにもまた,人文学の基本的態度があるとも言える.だから,よくある「昔あったよね」批判は,「新しい点をちゃんとうち出そう」というポジティヴなフレーズに変えていく力が必要なのだろう.

デジタルという言葉のメタフォリカルな使用について

これは与太話なのだけれど,情報科学をちょっとだけ勉強して思ったのは,人文学で「デジタル」と言われているものは,実際に情報科学の人からしてみるとむしろ意味が取りづらいところもあるのだろうな,ということだ.

例えば,鼎談でも「デジタルな思考」と「イエスかノーかの二項対立的論理」という見事に人文学的なメタファーが用いられていた.もしも情報科学の人で,バイナリを思い出せばこのメタファーも理解できるだろうけれど、まず論理演算(ブール演算)を思い出してしまった人ははもう意味がわからないと思う(すごく無理に言えば,これはNOTのことを言おうとしています)。というわけで,少しでも誤解の溝を埋めたい.

まず,ここで「デジタル」と言われているものは2つしか選択肢がなく,その間は認められていないこと,だと考えて欲しい.そんなものがどこにある,と思う人もいるだろうが,そういう話なのでどうか素直に受け止めて欲しい.「デジタル」には「アナログ」という対義語がもちろんあるのだけれど,「アナログ」は2つしか選択肢がないのではなくて,他の選択肢が選びとれる状態であることを意味している.これは他にはスペクトルといったキーワードで表現される.

オブジェクト指向という言葉も哲学のほうで登場してから,いろいろ難しいことになっている.ただし,これらの言葉に共通しているのは,とりあえず文章を読むと違う定義がしてあるらしい,ということだ.意味が不明であるというわけでも,何かをごまかそうとしているわけでもないので,どうか温かく見守って欲しい.

それと関係して,「ポスト心」や「文学の終わり」,あるいは「物語の消滅」といった言語ではないものの表象の議論に際して情報科学的な考えてということが言われていた.そのことにもちょっと触れたい.

まず,「デジタル」なものはとにかく「両義性」を許さない,というものとして解釈される.だから,例えば、これに類するAI化する人間,というメタファーは「言葉の両義性や曖昧さを許容できない,理解できない人」という意味になる.これに対して,例えば談話分析で統計学をごりごりに使っている人から「いや,そもそも人間の曖昧さに対する判断自体が曖昧なんで何が言いたいかわからないです」という返答が来ることは当然と言える.けれど,ちょっと待って欲しいのは,ここでは例えば社会全体で「両義性」に対する評価が昔と今では異なってきているよね,昔はもっと曖昧なものが今ほど目に見える形で批判されなかったよね,とある種の文化評論的な文脈がある背景になる.そして,文化的な規定が哲学的であるとはどういうことか,という問題にも影響を与える.だから,こうした語り方がなされている(と私は考えている)

「ポスト心」では言語を使ってなされるコミュニケーションが切り詰められているので,プロトコル通信以外のコミュニケーションはできないみたいなイメージがなされている.もちろん,日常の要件をすべてこなすことのできるプロトコルを設計できればそれはとんでもないことなのだが,これもまた人文学的なメタファーなので,慣れる練習だと思って欲しい.さて,そんな世界に文学がありえないというのは話として繋がってくるのはこれでおわかりのことだと思う.文学作品は一般的には作者がメッセージを込めているものだと思われているが,それにしては曖昧だしやたら長いために,メッセージなどがあってもそれが本当はどのようなものかもう(時には本人にも)わからなくなってしまうものだ.そんな冗長性は許されない世界が来るだろう,みたいな話がここではなされている.だから,物語の複雑さも縮減するようにしていくだろうみたいな話になる.実際,プロット解析と機械学習による生成は基本的にうまくいく.まぁ当然といえば当然で,起承転結という言葉が示すように,物語を物語だとみなす(あるいは物語だと取りちがえる)能力を人は所与の認知条件として持っている(因果推論の議論も関係している).これに関連して,現代の文化の診断の定型句として「人間がAIのようになっている」という言い回しもあるが,これは機械学習によってすでにある現象に対する新しい表現の一種だなと個人的には思っている.ちなみに,円城塔の『文字渦』の話がでていたので手前味噌の話をしておくと,ひふみさんと対談した「中華鍋で言葉を焼く」は円城塔の短編「これはペンです」の挿話から取っている.実は,円城塔の『文字渦』での試みはこの短編に淵源が見られるので,鼎談の中で対談の伏線が回収されたようで嬉しかった.ちなみに,私もだいたいひふみさんとここらへんの議論は一致しているように思った.私はやはり精神分析は文化現象の1つだと思っているし,治療の場で有効である理由は精神分析以外のロジックで説明されるべきだと思っている.なので,私はこの鼎談でいうところのたぶん「ポスト心」派なのだと思う.

そういえば,情報科学系の人の素朴な身分制社会の肯定や,分離主義者の本質主義への回帰などいろいろ言われていた.これについては,いつも思っているのだけれど,どこまでが情報科学っぽいものと関係しているのかよくわからない.例えば,エリートのベーシックインカムで慈善してやればいいじゃないの,というのは,溝口の『赤線地帯』で売春防止法に対して売春宿の経営者が娼婦たちにたち対して,身寄りなく稼ぎもない人間を食べさせてやっているのはこの自分であり,慈善事業をやっているようなものだ,といった台詞を言い放つのとだいたい同じように思える.これは現在で言えばビジネス日本語である「働かせていただいています」もそうだと思う.これは本来ならただの謙遜表現なのだが,これを文字通りに受け取って,「働かせてやってるんだ」,「給料を払ってやってるんだ」と思っている経営者が少ないということに私はあまり確信が持てない.また,現在,情報科学の発展を背景に台頭したいわゆるIT企業関係の人々についての診断もかつての通信や鉄道がいまのITだと考えると,鉄道会社や通信会社の実業家たちの思想と比較してから考える方がより興味深い結論が出そうだなと思った.

おしまいに

書き散らしてしまったが,いい鼎談だったことはもう一度強調しておきたい.そして,ひふみさんがいよいよ打って出ていくのをみたのは非常に気分がいいので,次は単行本を待っています,とひそやかなプレッシャーをかけたいと思う.今後ともご活躍をお祈りしています.