南礀中題

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いまさらコミティアと文フリを振り返る

コミティアと文フリ

2018年11月25日にコミティアと文フリで買った本について振り返る.

コミティアにて

初めてのコミティアだったので,何時間かかけて念のため全てのブースを覗いた.フランス人がたくさんいてとても楽しかった.NHKでアニメが開始した『ラディアン』の原作者がサイン会をしているのも観光気分で眺めていた.あと,なんの事前情報もなかったから一瞬だけ「なぜスーツ姿?」と思ったブースも,机を挟むやりとりの様子だけで編集者によるアドバイス,そして,マンガ家がデビューを賭けている場であると理解した.未来の漫画家たちに栄えあれ.

ブースをそうして見終わったのだけれど,結局のところ買ったのは「ゲンロン ひらめき☆マンガ教室」のバトルロイヤル企画の3冊と『マンガ家になる! ゲンロン ひらめき☆マンガ教室 第1期講義録』の4冊だけだった.私はよく萌えがわからないと周囲に言っているのだけれど(何かを「かわいい」とか「エモい」と感じることはできるが,「萌え」という言葉で表現されているものは私にとって違う国の文化に感じる),それが原因だったのだと思う.私はてっきり,ガラスコップが表紙になり,凝ったロゴであしらわれた,何ついて書かれているか想像もつかない冊子のたぐいを期待していたのだけれど,みなそれぞれターゲットを絞った表紙を描いていて,私は完全に何かを履き違えていたようだった.

ではなぜそんな素人の私がコミティアでひらめき関連の冊子を買おうと思っていたかというと,ゲンロンスクール生の作品のクオリティの高さに前々から興味があったからだ.批評については,比較的私の専門と近いところがあるせいかあまり胸を衝くものがないと辛めに評価してしまうが(といっても渋革まろんのチェルフィッシュ論は知らないことがたくさん書いてあったので読んでいて勉強にはなった),芸術校の方は今のところ最終成果展は全て行っている気がするし,なんと新芸術校で名前を知った磯村暖さんは知り合いの知り合いということが先ごろ判明した.

SFのスクール生は少し読んだだけでもっと読みたいと思わせる作家が多かった.2016年の高木刑「ガルシア・デ・マローネスによって救済される惑星」も中世キリスト世界をそのままテラフォーミングに持っていくという戦前のロシアの香りが漂うSFは外連味が効いていたし,2017年のトキオ・アマサワ「ラゴス生体都市」の荒削り丸出しのサイバーパンク(とはいえ,改稿されたものはよくなっていたとたまたまお会いした本人にも伝えた)と麦原遼「逆数宇宙 / the Reciprocal Universe」の筆が走り過ぎて常人ではなかなか追えない体でのイーガンぶりも(こちらも改稿したkindle版を拝読したが,かなりのクオリティに仕上がっており,イーガンらしいわかったけどわからない感が存分に発揮されていた),私の趣味にかなりマッチしていて驚いた.そういえば,『Sci-Fire』も買って読んだ.これらの傑作に比べれば少し落ちるが,同人誌には珍しい高い質の小説ばかりだったのでやはり一読をおすすめしたい.

こうした関心の重なりからゲンロンのマンガのスクールも自然と追うことにしていたのだが,私事が多忙すぎて全く力を入れてマンガ家たちの様子を見ることができなかったので,いつのまにか1期が終わり,2期が始まってしまっていた.そんな折,今回のバトルロイヤル形式なら受講生の作品がまとまって読めるし,そういえばコミティアに一度も行ったことがない,あと文フリも帰りに寄れると思い,それらを買うことにした.

最初に競争の結果を振り返ると,ABCの3つのチームがアルファベット順のランク付けがなされた.個人的にはこの結果には何の驚きもなかった.というのも,Aチームの冊子に収録された作品が明らかに他の2冊よりも平均的に面白かったからだ.先に2位と3位の個別の作品について感想を言うと,素人でも良いとわかったのは,Bチームでは市庭実和「水面に揺れて」,Cチームでは山田平日「ユーハイム物語」とねりけし「美容室難民」だった.理由は奇跡的に本人たちに会うことができたら伝えることにする.

さて,1位のAチームの『大人になったきみへ「小学4年生」』は個人的に結果を見るまでもなく1位だなと直感的にわかってしまうものだった.その理由の筆頭として,それぞれのマンガにスクール聴講生レビューがついている工夫が上げられる.外部の評価をきちんと受け止めることは基本的に難しいし,それが専門家ではない時には特に難しいのだが,このチームの人たちはそれをうまくやってのけており,かつそういう意識がクオリティに反映されていたと思う.どれも好きな作品なのだが,個人的な好みを言うとやはり,しらこ「泡」だろうか.タッチや線が好きなのはもちろん,公園からパチンコやバスへという移動も感動させられたし,泡が弾けるだけで終わる最後も見事だと思った.ただ,もう少し変えられる部分もたくさんあるのだろうという気にはさせられた.他のマンガも読みたいと思った(こう書いた時に課題に提出されていたものも読んだ)

こうした細かいこと以外を総合すると,繰り返しになるが,私はかなりのマンガ読みの素人なので,とにかく視線誘導が素人に優しいものでないと私は読むことさえできない.ABCチームのうち,そうした視線誘導の優しさが最もあったのはAチームだった.よって,このレースの結果には納得した.これらはゲンロンショップで買えるのでぜひ全て買ったうえで比較するといいと思う.

そういえば,『マンガ家になる!』もようやく読んだ.ずぶの素人の僕も4コママンガを描けるのでは?と言う気にさせる素晴らしい本だった.『マンガ家になる!』は,いろいろ縁あってマンガ表現論を多少知っている自分としては,ルポルタージュに近いもので,平均化された技術について教えているわけでもないという点が非常に読んでいて楽しかった.こうした本はたしかにさやわかイズムを反映していると思う.ただ1点だけ脱力してしまったのは,横倉メンゴについての紹介文で「女性らしい」という言葉が使われていたことだった.こういう細かい表現を取り上げると,現在ではPC狩りと言われてしまうが,自分はこの手のあらゆるバリエーション(「〜人らしい」から「君らしい」までのすべて)に対して,「表現方法とその人の属性は必ずしも必要十分で一致するはずがないし,一致する必要もない,せいぜいあるのは文化的な独自性だ」と主張してきたし,実際それは正しいと信じている.この本を読んで『クズの本懐』を読んだが,自分には一切「女性らしい」何かは感じられなかった.それは素晴らしいマンガであり,本人の属性が作品にどう関係しているのかやはりわからなかった.とはいえ,『マンガ家になる!』はやはり素晴らしい本だった.今後も多くの人に読まれるといいな,と思った.

文学フリマ

まず,私がかつて所属していた早稲田大学現代文学会の会誌『Mare』の4,5号から話す.4号は藤原歩「移る」が良かった.5号は全体的に非常にクオリティが上がっていて,なんといっても木澤佐登志「ピーター・ティール論──封建主義2.0のススメ」は秀抜だった.ペイパル創業者で投資家であるティールの思想的背景に迫る試みは,いまや彼が受講していたジラールスタンフォード大学で教えていたことを知らない仏文生が多いだろうことを考えれば,フランス的思考の拡散の一例としてこのティール論も一読必須の価値を持つだろう.戯曲における商人の表象を超えた,フランス文学における実業家フィクションは,やはり19世紀後半の投機バブルに湧いたパリを描いた『金』である.商人から実業家へと表象が移っていく19世紀は,そのまま資本主義の発展とうまく重なっている.よって,経済ビジネス書にあるような業績と格言がセットになるタイプの本(これは100年くらい前からあるし,おそらく自伝・伝記論において考察されるのだろう)ではなくて,実業家の一見単純に見える行動がどのような思想に裏打ちされているのかを考察するのは意義深いことだ.すでにオルタナ右翼で出版が決まっている木澤さんのことなので,ティール論は本になるかもしれないし,今後も期待大だ.そして,木澤さんは無理なスケジュールの中で書いてくださったことを関係者から聞き,私の後輩たちの雑誌に今回の玉稿を寄せていただいた幸甚にかぎりない感謝を捧げる.

次に『Rehtorica#4』を買ったことについて.あの白江幸司a.k.a.ttt先輩(この意味がわかる人も今は少なくなってしまった)が寄稿しているという理由だけで買ったのが,内容が意外で驚いた.まだ10年も経っていないのにゼロ年代の振り返りというわけだ.僕は『アニメルカ』に寄稿していた時期があったのでゼロ年代の人と思われることがあったけれど,どこにいても火星人のような存在なので,ゼロ年代のことはよく知らない,というか(ビジュアル)ノベルゲームやマンガの固有名詞が多すぎてついていけなかった.というわけで多くの人にとっては「感傷」にしか見えないかもしれないこの冊子は僕にとっては非常に興味深い「記録」だった.その意味で,こうした冊子こそ真に重要だと文学研究者的直観が告げている.そういえばこの冊子の関係者である成上友織さんの『リワルド』ぶりの新作『どこから話が』も読んだ.感想は次に会った時に本人に言おうと思う.

それで,白江さんの「侵犯的リアリズムと思考の原形質」は長年の白江フォロワー(そういえば私は高校生の頃からツイッターをフォローしていた)としては白江イズムの詰まった傑作だった.ただし,本人が述べているように,この論考は白江ツイートを追うことで文脈を補強しないと理解しにくい部分が多かっただろう.長年の白江フォロワーとして簡単に注釈しようと思う.

人は世界のあるルールにしたがって人と関係している.ところが,あるフィクションの形式では関係がルールを破壊することで生まれる,あるいは変化する.それが白江の言う「侵犯」だ.それを主題的に描いていると考えられる漫画家の一人が岩井均であり,そのテーマが集中的に表現されているのが『寄生獣』というわけだ.だからこそ,このテーマティークな読解は,一見するとアカデミックな細部への耽溺に見えるが,白江の本来の目的は,デスゲームやサバイバル(対象との乖離と世界と独自の関係の結び方ということで言えば,少し言及されているような『ONE』的なものも加えて良いだろう)をストーリーラインのベースにした2000年代以降の多くのフィクションを規定している観念(社会的通念,我々の懐かしい言葉で言えば,「想像力」や「コード」)の正体を追求することだ.この論考はその一端を垣間見せている.また,近年では権謀術数をめぐらせる中世や王宮を舞台にしたドラマが世界的なヒットをしているが,これらもデスゲームの一種であるとすれば,バロック演劇に特徴的な陰謀の宮廷劇の表象であり,さらにはすべてが敵であるというスパイものに典型的なパラノイア状態と言え,デスゲームが位置するより深く広い文脈が見えてくる.

ところで,『Rehtorica#4』にはオフラインで会ったこともある知り合いが寄稿していた.江永泉だ.彼は今回,「少女,ノーフューチャー」で桜庭一樹の『砂糖菓子』論を書いている.江永と私は年が多少離れているのだけれど,ある時期.深夜まで話し込んでいた.このノーフューチャー論のわれわれの懐かしい記憶の1つだ.論旨をここであらためて繰り返す必要はないけれど,1つだけ付け加えておけば,キャラクターの欺瞞がそのまま作者の欺瞞につながっていく読解方法を私は彼の書く文章で頻繁に目にしてきたが,今回は非常に見事で,彼の書いてきたエッセイの中で一番優れていると思う.こうした文章に結実したのであれば,あの胡乱の日々も無駄ではなかったのだな,と久しく覚えていなかった感慨にふけった.

まとめ

今年は本当に楽しかったと思えるのは,コミティアと文フリのそれぞれの素晴らしい経験と,そこで買った冊子のクオリティの高さゆえだったのは,その理由の1つとなっている.ここで紹介した冊子に関わる全ての人々に,感謝の気持ちを伝えたい.