南礀中題

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アーギュメンツ#3レイ・ブラシエ「脱平準化──「フラット存在論」に抗して」の誤植ほか

アーギュメンツ#3について

刊行からすでに随分経ってしまったが、私生活が落ち着いてきたので簡単に僕が協力したレイ・ブラシエ「脱平準化──「フラット存在論」に抗して」の翻訳の誤植についての訂正と感想を述べたい。

誤植について

訳者が携わった中で気づかず残された誤りについてここで訂正し、お買い求めいただいた皆様に謝意を申し上げます。

最初の誤植として挙げられるのは、88頁では「「フラット存在論」に抗して」では鉤括弧でフラット存在論を括っているが、19頁の目次では同じ箇所を鉤括弧で括っていない点だ。これは88頁の方が原文に依拠しているので、目次が誤植となっている。

最後に、誤植というよりも、単に内容に誤りがあった箇所がある。

翻訳に際しては、上述の通り講演原稿であることも踏まえて、日本語としてできるだけわかりやすい文章となるよう心がけた。注釈は、原文の注釈は邦訳が確認できなかったのですべて原文のまま表記し、(『アーギュメンツ#3』、p. 103)

この「原文の注釈は邦訳が確認できなかったのですべて原文のまま表記し」という点が誤りである。下訳を作った後の作業段階で直すつもりだった部分を僕がすっかり忘れてしまい、解題の雛形を作成した際に、訳文見直しの作業を中心的に行ってくれた仲山さんにも確認することを怠ってしまった。

具体的な間違いを以下で指摘する。まず、原文注釈5に、次のような記述がある。

For the distinction between scientific functions and philosophical concepts, see Gilles Deleuze and Felix Guattari, What is Philosophy?, London and New York, Verso, 1994, pp. 117–162. (Brassier, “Deleveling: Against ‘Flat Ontologies’,”p. 73.)

このうち、英語の指示は101頁に訳出した通りである。そして、ドゥルーズガタリの『哲学とは何か』からの引用が示されている。94頁でブラシエが検討しているデランダのファンクション論が検討されており、それは『哲学とは何か』第II部「哲学──科学、論理学、芸術」5章「ファンクティヴと概念」、6章「見通しと概念」に依拠している。原文注釈5は、普及している日本語訳では、以下に対応している。ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ『哲学とは何か』、財津理訳、河出文庫、199-273頁。

目に付いた大きな間違いは以上となる。改めて、防ぐことのできた誤りが世に出回ってしまったことを深く反省し、謝罪いたします。

未記載の訳注

訳注提案をしたところ、未記載が決定した訳注が1つあるのでここに供養しておく。

93頁のデランダ『強度の科学と潜在性の哲学』からの引用に「適切な問題」と訳されたwell-posed problemという箇所にはもともと注釈がついていた。これがドゥルーズの議論を参照していること、線形力学についての話題であることを考えると、明らかに物理学用語を踏まえているということで、超音波研究をしていた友人のナカジマくんに訳注の草案を送って訂正してもらい、原稿用紙2枚分の訳注が出来上がった。言うまでもなく、あまりにも長大で、そもそもドゥルーズもそれほど厳密に理解できていないと考えれるために訳注は削除された。訳注は以下の通りだ。


ここで「適切な問題」としているのは、良設定問題(well-posed problem)のこと。一般的には「良設定問題」と訳されるが、『数学辞典』(第4版、2007年、岩波書店)など参照し、文脈をふまえてこのように訳出した。
 良設定問題はジャック・アダマールが「偏微分方程式理論における極限の問題」(M. Hadamard. Les problèmes aux limites dans la théorie des équations aux dérivées partielles. Journal of Physics: Theories and Applications, 1907, 6 (1), pp.202-241. )で、物理的過程を説明する場合の数学的モデルがどのようにあるべきかを考える中で定義された。その定義は、解が一意で存在し、媒介変数の連続的な変化に従って解も連続的に変化するような性質というものである。以下では、ブラシエが引用しているデランダがこの語をどのような意味で用いているのかを説明する。
 デランダは『強度の科学と潜在性の哲学』の中で、ドゥルーズの『意味の論理学』で論じられる、微分法方程式における問と解の関係を独自に解釈している。よく知られているように、『意味の論理学』の第9セリーでは、微分方程式における特異点が隠喩的に用いられていた。ある出来事が生じた場合、出来事が生じたという問題そのものがある、ということが前提とされ、問と解の一対を援用する形で、出来事という問題の解とは何か、ということが考えられる。この時、「問題を決定するのは特異点だけであり、特異点は問題の条件を表現する」 (ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』、小泉義之訳、河出文庫、2007年、106頁)と言われている。こうしたドゥルーズにおける問題と解の議論を、デランダは、散逸構造論ならびに非線形力学におけるカオス理論などといった現代的な力学や、生物学的な個体発生の現象と構造的に対応させることで潜在性という議論へと敷衍する。それについて、まずドゥルーズ特異点の定義を確認し、次にデランダがそれを受けてどのような解釈を展開しているかを確認する。

ドゥルーズ特異点を参照する際に、議論をベクトル場における積分曲線(『意味の論理学』、107頁)を例示している(以下の説明は、オンライン上で読める資料としては吉野正史「ベクトル場と力学系微分方程式」(http://home.hiroshima-u.ac.jp/yoshinom/math/sentan160520.pdf )、Erich Miersemann, “Partial Differential Equations” (www.math.uni-leipzig.de/~miersemann/pdebook.pdf) などを参照した )。ベクトル場は方向場とよく混同される概念である(http://yuki-koyama.hatenablog.com/entry/2017/11/02/152331 を参照)が、今回はベクトル場が大きさと方向の両方を,対して方向場が方向のみの情報をもつものとして扱った。ある1階の微分方程式 y=f(x,y)とその解を y=g(x)とする。この時 i平面上で y=g(x)が表す曲線 Cを、微分方程式の解曲線という。 C上の任意の点 (a,b)において、傾き m=f(a,b)つまり方向は、 m= y’( = dy/dx) = f(a,b)と計算できる。これを xy平面上の各点について計算して求められる解曲線の傾きの分布が方向場である。ところで、実数全体を\Reとする時、 x=(x_{1}, x_{2}, ... , x_{n}) \subseteq\Re^n(n\geq2) で与えられる、方向場(a_{1}(x), a_{2}(x), ..., a_{n}(x))が与えられている時、ベクトル場は各軸方向の微小変化ベクトル量をかけることで、X=\sum^n_{j=1}a_{j}(x)\frac{\partial}{\partial x_{j}} \frac{\partial}{\partial x_{j}}, x_{j}=(0, 0, ..., \Delta x_{j}, ..., 0)\Delta x_{j}は、x_{j}方向の微小変化量、と計算できる。ただし、ここでは、ある領域nで連続である。さて、ドゥルーズが言及しているベクトル場における特異点とは、与えられた連続なベクトル場Xに対して、すべてのa_{j}(x)が消える点のことである。わかりやすい例を挙げると、x\frac{\partial}{\partial x}-\frac{\partial}{\partial y}とベクトル場がある時、原点(0,0)特異点となる。接線の方向の分布を図で表した場合、ちょうど原点に空白ができていると想像してほしい。ところで、ベクトル場のある点に接する曲線を求めることができる。これをベクトル場を積分するという。先のa_{j}(x)がある正実数Lについて\biggm|f(x,a_{j})-f(x,a_{j-1})\biggm| \le L\biggm|a_{j}-a_{j-1}\biggm|である時(リプシッツ連続関数である時)、つまり、関数f(x,a_{j})微分することができてさらにそれが連続であるという条件の場合、\frac{dx_{j}}{dt}=a_{j}, j=1, 2, ..., n.積分することでベクトル場のある点の積分曲線を求めることができる。ただし、変数が0の場合から解の状態を指定し、それが方程式を満たすかという初期値条件で解の存在と一意性を確認し、与えられた点a=(a_{1}, a_{2}, ..., a_{n})特異点でない場合にのみ積分曲線は存在する。これは特異点にはaの点が存在しないことから自明である。
 ところで、ここで触れられた初期値問題こそ、良設定問題の一つである。良設定問題にはもう1つ微分方程式における重要な問題があり、それが境界値問題である。デランダのドゥルーズ解釈を理解するうえでは境界値問題も重要となるが、ブラシエはそのことについて議論を重ねているわけではないので、ここでは境界値問題についてごく簡単に説明するにとどめる。初期値問題はすでに見たように、ある微分可能かつ連続な関数を変数を0から解が一意に決定するようにする問題である。微分方程式では、他にもある領域の中で関数がどう振る舞うかを閉区間で調べることが多い。その際に、境界上で指定された条件を満たすかどうか調べることを境界値問題という。流体力学、特に数値流体力学では非常に重要な問題となっている。良設定問題は、以上から、次のように考えられる。すなわち、解が存在すること、それが一意的であること、初期値と境界値の条件を連続的に保存していること、それが物理モデルを扱う上で適切と考えられる問題の条件なのである。
 以上を踏まえて、デランダが良設定問題について触れているところを見てみよう。デランダによれば、「何が重要で何がそうでないかといったこと、そうしたことを現実的な出来事の中で理解するということ(…)それは、適切な問題を定義する特異的なものと正則的なものの客観的な割りふりを正確に把握することを伴っている」。まず、この表現について見ていこう。ここで「特異的なもの」と「正則的なもの」と表現されているのは、いずれも特異点と正則点を隠喩的に用いているドゥルーズの表現にならったものだと考えられる。ドゥルーズ特異点を「前-個体的」(『意味の論理学』、104頁)で「非-概念的」(同上)なものとして考えている。これは特異点がいわば空白でありながら積分曲線の方向の基準点のように見える様子を、現前していないがシステムを構成しているものに重ねているということだろう。また、特異点はそれぞれの「セリー」の構造を組織し、「出来事の様態」である「問題の条件を表現する」(前掲書、106-7頁)ことから、特異点と問題や出来事が関わる。デランダが「何が重要で何がそうでないかといったこと、そうしたことを現実的な出来事の中で理解するということ」と述べているのは、おおよそドゥルーズ特異点と出来事の関係を説明するものだと考えれる。ドゥルーズによると、「解については、解が現出するのは、積分曲線と、積分曲線がベクトル場の中で特異性の近傍でとる形態とを伴う場合だけである」(前掲書、107頁)と非常に迂遠かつ曖昧な言い回しではあるが、初期値条件にしたがったうえで、特異点でないところに積分曲線が存在するということを述べている。デランダは『強度の科学と潜在性の哲学』の中でドゥルーズの様々なフレーズに込められた意味を再構成していくスタイルをとっているので彼の潜在性の理論にこの積分曲線とベクトル場への言及がどの程度の影響を持ち得たのかは図り難いものの、少なくともこうしたところで良設定問題という表現を用いる余地があると考えたのだろう。物理学の表現としてあまり適切ではないものの、特異点と正則点を把握することができる良設定な微分方程式では、より良い数学モデルが構築可能となる。最後に訳語について補足しておく。特異点と正則点の分布(distribution)をここでは「割りふり」と訳した。これは、ドゥルーズの訳書では一般的にこのような場面でのdistributionを「割りふり」と訳出する慣例に従った。
 良設定問題が最初に触れられた箇所についての解説は以上として、次に、ブラシエが以下で繰り広げる一連の批判について整理しておく。まず、デランダが解釈するドゥルーズの『意味の論理学』の基本的な理解を確認しておこう。
 『意味の論理学』はドゥルーズのキーワードの1つである「表面」や「表層」を展開する書物である。本は大きく分けて2つの表面の考察に分けられる。まず、前半は表面でどのように意味が人格や命題を形成していくのか、というシステムの考察で、とりわけ16・17セリーで重要な議論となっていく。次に、後半の27セリー以下では、このシステムそのもの、すなわち表面がいかにして生じたのかというのを考察していく(以上は朝倉友海の説明を参照している。 『ドゥルーズ』、河出書房新社編集部編、河出書房新社218-219頁)。一方で、デランダは、ドゥルーズのこうした考えを「ドゥルーズ存在論の認識論的側面」だと捉えている。デランダはドゥルーズに見られる認識論と存在論の二重性を、現実的な現象と数理モデルの対応に拡張する。ブラシエがデランダの弱点として取り上げている「同型性」とはこのことを意味している。また、この同型性こそブラシエの批判ポイントなっていく。ブラシエによれば、その同型性は何によって保証されているかが考慮されていないのだ。続きは、ブラシエ自身の文章を読んでほしい。
 最後に、本訳注の物理学の知識を要する事項は訳者の友人であるナカジマ氏に監修していただいた旨を記しておく。旧友に敬意と謝意を表する。





翻訳について

翻訳にいたった経緯

今でも理由はよくわかっていないのだが、仲山ひふみさんから仕事の依頼があり、僕の好きなミンガラバーで食事をすることとなった。『アーギュメンツ』のことは知っており、その第3弾の翻訳のお手伝いをして欲しいとのことだった。

19世紀の人間が19世紀の言葉遣いで書いた哲学書ばかり読んでいたその頃、ナウでヤングな哲学の議論を翻訳できるか心もとなかったが、論文がもともと講演であったことや仲山さんのバックアップがあることなどを条件として引き受けることにした。

最初の下訳は僕の奇癖のために一切の漢語を配するというかえって読みにくい原稿になってしまったが(例えば、「不可能性」はすべて「できないこと」みたいな感じだった)、最終的には今の形に落ち着いた。

仲山さんの丹念な校正の後、最終チェックの段階で全国の哲学博士課程の学生に目を通してもらったそうで、私の翻訳とはなっているものの、実際は多くの人々の力の成果であることを強調しておきたい。ここに改めて謝意を表する。

内容について

個人的に、今から思えばspeculative realism関係の文章を本腰入れて読むのは、19歳くらいの時にChristopher WatkinのDifficult Atheismを読んだ以来だった。といっても、ブラシエの話はあまりこの本には関係ない。

ブラシエによるハーマンとドゥルーズ=デランダ批判はようはマジレスだ。ハーマンのGeviert拡張としての感覚と実在の存在論も、デランダのように生成を問題と解決に置き換えることで、科学哲学で問題になっているような、認識論と存在論の対立を一致させる方法について、そんな考え方ではうまくいかないと言ってるだけだ。こうした批判は実際のところ、僕はいつも漠然と思っていたことを非常に的確に指摘していて、得心がいくところが多かった。

また、そもそも物理学偏重というか、科学も一枚岩でない(Knorr-CetinaのEpistemic Culturesとか)ことに目をつぶってやるのは筋が悪い。むしろ、今後は19世紀後半のあの感じ(今ちょっと日本酒を飲んでいて書くのが面倒だがきっとわかってくれるだろう)を今やるってことの意味はどうなんだろうって考える方がきっと実り豊かだろう(量子力学における存在論は?、統計学における認識論は?などなど)。

最後に話は全然変わるけれど、僕はマルクス・ガブリエルが好きだ。ハーマンはそうでもない。理由はとても単純で──。この話はまた別の機会にしよう。