南礀中題

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首都圏と廃墟の備忘録

首都圏の老い

2018年3月17日に『都市の老い』刊行関連イベントの『首都圏の老いにどう向き合うのか』を聴講した。予定がおしていたので遅れて入っていくと、市長が話していた。いつものように場所とテーマ以外とくに調べずにやってきたら、生まれて初めて市長が基調講演するたぐいの学会だったので驚いた。背広姿の人々もちらほら見られ辟易としたが、調布市の市長は達者なしゃべりをしていた。

さて、首都圏のインフラ老朽化や空き家率の問題に関心がある理由は、フランス文学研究をやっていくなかでパリの都市研究を読む必要があった折に、都市のインフラと衛生というテーマの著作を読み、非常に面白かったからだ。混迷と冥闇を深めていく文学研究は自分が研究対象としている作家の生まれた頃の社会情勢は月単位で知っておく必要がある場合などあるが、どうしても尺度を広くとっておかないと混乱してしまうので、都市研究のようにある程度歴史の流れを抑えることができる研究は非常に役に立つ。今回、自分が生きている都市における問題とそのアプローチ方法に関心を持って赴いた。

詳しくは例の著書を読めばいいらしいが、一番面白かったのはリクルート住まい研究所所長宗健の発表「民間主体からみた今後の都市の問題」だった。不動産関係に無知な自分だったが、いわゆる住調は目視確認による空き家確認だそうで、全国の不動産業者が収集しているデータを総合した場合と大きく異なっているという事実だった。そして、以下で述べる理由から、実は空き家率は見積もりすぎであり、耐震強度や建物自体の老朽化のために、住宅ストックが増えているわけではないという。では、現状とこれからについて見ていこう。

現在の住宅建て替えないし耐震工事を含むリフォームの割合が続いても、2027年には首都圏内の賃貸共同住宅は基本的に4割に改修工事(術語を正しく使えてないと思うが、このブログではとりあえず耐震工事や水道・電気・ネット周りの整備の意味として使う)の必要が乗じてくる。とくに現在の東京は数十年前のアパートが集中的に点在しているところが多く、今後老朽化していくことが珍しいという。パリを引き合いに出すと、古い建物の外観は残したまま、内部の改修工事を行なっていくスタイルなので、都心部に40年、30年の老朽化を迎えるところはほとんどないと思われる。パリの場合、それは郊外に作られた団地に生じている問題である。また、アジアに目を向ければ今後20、30年後に同じようなことが各地域で生じるはずなので、個人的には、東京都心での対策の結果(ほとんどの確率でそれは失敗すると悲観的に考えているが)は参考になるだろう。

老朽化と同じように深刻な問題として考えられているのは、家賃滞納の問題である。これは社会の高齢化と密接に関わる問題である。一般的に再就職が難しくなる年齢や体調になると、年金だけで家賃を払うこともできないし、家族からの支援が期待できないのは当たり前となっていくのが高齢化社会である(なぜかこれがわからない人が多いので早急な啓発が必要なのだがーー)。現在、三分の一(都内だったか首都圏だったかメモが抜けているが、いずれにせよ想像している以上に)の65歳以上の高齢者が生活保護で家賃を払っているそうだ。いまのところの福祉政策では、今後家賃滞納はさらに問題となっていき、数千億円程度になると考えられている。たしかに、持ち家率も低下しているし、独居老人が増えているので普通に考えて現在のシステムは破綻するだろうし、東京都がそうした破綻に有効な対策を打てるとは考えられないので、確実に何らかの物理的な軋轢(加速的なホームレス問題、福祉のための闘争)が生じてくるだろう。

さて、こうしたデータから推論すると、まず空き家が増えているのは問題だ、という言説は基本的に煽られすぎている、というのが実情だそうだ。改修工事が必要な建物を投資によって新築に建て替えるべきだが、空き家率が多いという煽りによって投資率が下がってしまえば、そもそもまともに住むことができる家自体が減ってしまうという。対策としては旧耐震物件のリースの法的規制などが考えられるという。住民の高齢化と家賃滞納の増加、住民のセーフティネットの構築が今後数十年の課題となっていくそうだ。

といっても、個人的にはもっと時間がかかると思う。まず、若年層の減少による労働者層の減少は、ほぼ間違いなくアジア圏からの留学生や国内の3世世代コミュニティによる支援で定着していく国外の人々の手によって補われる。そのとき、できるだけ安い物件が求められるはずで、おそらく産業界の要請から、法的規制をかけづらいだろう。早稲田大学に通学しているとき、1970年代を思わせる物件が周辺に多く残っており、家賃も4万円と破格だった。そうした家はさすがに新築になるだろうが、現在6万円程度の家賃の家は軒並み4万円程度になっていき、そこに住もうとする人々は潜在的には多いと思われる。もちろん、こうした予測はいくらでもはずれようがある現在の政策模様なので、何も確実なことは言えない。

VOCA展2018

うってかわってVOCA展の話である。VOCA展は大学生になりたての時に建畠晢氏の授業で「え、現代アート面白くね?」となった時に行った思い出のある展覧会だった。最後に行ったのはだいぶ前で全く覚えてないが、今回のほうが絵画については素人目でも技術力が高い作品多くてびっくりした。

今回行ったそもそもの理由は、梅沢和木と田幡浩一という知っているアーティストが2名選出されていたからだった。梅沢さんとは、ゲンロンカフェが開業したばかりだった頃に、なぜか徹夜で飲み明かしたグループでご一緒し、本当になぜそうなったか全く覚えていないのだが、日本語ラップやアメリカで行われている口喧嘩大会(UW Battle Leagueのこと、こんなんUW Battle League Presents: Arsonal Da Rebel vs. T-Rex (FULL BATTLE) - YouTubeを見せる機会などあり、個人的にそのシチュエーションが全く意味不明だったのでご本人はおそらく忘れているだろうが、僕はよく覚えており勝手に見知っている。その時代、ゲンロンオフィスに入ること自体もいろいろな機会に顔を出しさえすればツテを頼って可能だったので、例の壁画を見て、「へぇーこんな作品なのか」と正直いえばよくわからないという感想だった。ところが、何度か調べたり別の機会に作品を見ていくうちに、これはすごいなと思うようになった。今回展示されいた作品、「すべてを死るのも」は本当に素晴らしかった。見どころは多いが、まず中央少し右側あたりにいた気がするこなたが後ろを向いている姿は胸を衝くものがあった。僕はシュルレアリスム研究者に薫陶を受けているのでコラージュといえばマックス・エルンストの試みを思い出すのだが、彼が百頭女のシリーズで用いていた挿絵は当時売れていた小説のものだったし、ほかにも図鑑などを切りはりしていたので、ある意味で情報の断片的なイメージの再統合をやっていたわけだが、もちろんこの時代に同じことをしても仕方がない。梅沢作品はこうした初期のコラージュではなく、ある時期のキュビズムなみに切断のかなり細かく、さらにそのうえ、断片から新しい像を作っていく中でその断片が関わるイメージを統合していく手法をとっている点がやはり見ていて驚きが多いし、ものすごい技術だと思う。また、絵ではなくて実写の写真のコラージュでは例えば消火器の輪郭を赤くなぞるといった工夫によって実写と絵の差異を消したり(あるいは別の箇所では目立たせたり)していてその細かな工夫に感嘆した。全体的に、以前からあった廃墟感に3・11以後に増えてくるようになったいまここにある廃墟を重ねていき、再生していく廃墟という奇妙な造形を描いている梅沢作品は、今後さらに評価されていくと思う。

さて、田幡さんについては、ご本人のことは存じあげない。最初に知ったのは千葉雅也『動きすぎてはいけない』の素敵な装丁画からだった。僕はこの装丁画が本当に好きで、その後、銀座でやっていた個展にもいった。この個展は本当に素晴らしく、田端作品の新しい傾向であった、断層のように静物画を割る表現の作品があり、今回の作品(タイトルを失念してしまい、ネットで調べてもよくわからない、ごめんなさい)もまたその一つだった。なんというか、素人目にはマネのアスパラガスの作品をトーンを落として描いたように見えるものを左よりに分割しているこの作品は、一連の試みの中では個人的にはピンとこなかった。しかし、個人的はこのシリーズは好きで、個展の時に配布していたマッシュルームの作品は以前は家に飾っていた。これらの作品の重要なところは、分割線がなかったとしてその全体像が完成することはおそらくないだろうという印象を与える点にももちろんあるが、(それはばらばらにされたトランプから見られる傾向)なによりもそれが分割というよりも断層であるという点であると思う。自然現象を表現する時には寓意の手法がとられるが、田幡作品はたんに断層を持ち込んでいるところが素晴らしい。馬鹿馬鹿しい表現でいえば、宇宙がそこにある感じする、のだ。もう少し真面目に考えると、ようは、岩が水になるような時間軸で静物画を行うという試みが僕の強い関心を引いている。おそらく僕のような地層大好き人間しかそうは思わないのだろうが、日常の時間スケールの対象物が圧倒的な地質学的スケールの時間と混在しているような印象を受ける。ようは、地学大好き人間は田幡作品になかりグッとくるものがあるだろう。これからの展開もとても楽しみだ。

世界風景から廃墟へ

ブリューゲルの本物の作品を見たかったので、ブリューゲル展にも行った。ボスから続くスタイルの系譜を見ておきたかったからだ。マザランが航海していた時代から北ネーデルランドが独立するまでの長いスパンを三世代とそれ以後の作品で構成するのは勉強になった。いろいろ思うところあるが、一番意外だったことを書いておく。

自然のなかに人工物をまぜて描くというのが16世紀のフランドルの画題としてよくあり、世界風景と呼ばれていた。川辺の農村や、市場帰りの農民の杣道の奥に都市が見えるといった作品だ。この時代には、こうした作品が非常に好まれていたという。それを見たとき僕はすぐに新海誠を思い出した。僕は新宿に住んで5年以上だが、新海は新宿を世界風景のように描く天才だと思う。彼の描くような美しい新宿は決して存在しないし、これからも決して存在しないだろうからだ。

そんなことを思いながら、世界風景絵画を見ていると、唐突に17世紀の廃墟画の名手にして建築画家ピラネージのことを思いだした。古典時代へのロマン主義的回帰から廃墟いいよね感の高まりがあり、ガスパー・D・フリードリヒといったロマン主義画家も好んで描いた題材だった。いまでもそうだが、田園風景が好まれる一方で、廃墟の写真や絵画は大変よく好まれている。どちらも近代化を通じて洗練されていった画題と手法だ。ここで、先ほどの新海のことを合わせると、そういえば、サイバーパンクメビウス作品のブーム以後、AKIRAに始まり、弐瓶作品や少女終末旅行など幅広い作品で廃墟のテーマが長期的に流行しているのだった。他にも新海のような新たなる世界風景を圧倒的に示しているのは京都アニメーション(とりわけ山田尚子)ぐらいだろうか。

しかし、新海の描く新宿はさきほど触れた首都圏の老いが示しているように、歩く廃墟の群れなのだ。主人公たちが住んでいる街から巧妙に排除されているのは、タイルの剥がれや、煤で汚れた木造アパート、凹んでいるが誰も直さないコンクリート舗装された玄関、経年劣化し鉄筋の見えるコンクリート壁、そこを通り過ぎるホームレス、横切れば聞こえる周期的な痙攣の数々である。世界風景と廃墟画は画題が異なっているために関連性は時代性に制約されているだけかもしれないが、このとき唐突になにかが繋がった気がした。村が出来上がり、100年がたった。新しい家を作ることが10年ほどなくなり、古い家を放置したままにしていた時代があったのではないのだろうか。あるいは、貴族の住むような屋敷も次第に経年劣化の色を隠せなかったのではないのだろうか。世界風景で描かれる新しい自分たちの住居と、廃墟画で描かれるかつての別の人々の住居の以降する瞬間があるのではないかと思った。もしも論文でそんなものがあればぜひ読みたい。

新海に話を戻すと、彼もよく廃墟を描いている。飛行場がまずそうだし、あのファンタジーもそうだった。梅沢作品も、生まれてくる廃墟と廃墟になってしまったものをたくみに描き分けているし、田幡作品の時間操作も僕にとってこの流れに属する。そして、この街は老いていく。どうやらこの1週間、奇妙な連続性に導かれていたようだった。