南礀中題

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シンポジウム「人文知の明日を見つめて」まとめ

この記事は、人文知の明日を見つめて —メディアの刷新と知変貌—での講演の一部をまとめたものです。私の関心や体力の関係で記述量にはムラがあります。また、会場でレジュメが配布されていなかった関係で、私の補足が多くあります。そのため、発言の正確さが保証できないないので、このブログ記事から文章を引用することを一切禁じます。会場の様子を伝えるものとしてお読みください。

エルキ・フータモ

Erkki Huhtamo, University of California Los Angeles

「ポストヒューマン世界における人文学の役割:メディア考古学の視点から」The Tasks and Trials of the Humanities in a Posthuman World : A Media Archaeological Perspective

近年の終末シナリオないし全てが衰退していくという言説について

  • 読むことの衰退
  • 書籍や新聞の衰退
  • 「人新世」による地球の衰退

また、教師として痛感するのは、生徒たちの文化的基盤が以前と全く異なっていることで、人文学的知識のベースを共有することが難しい。

  • アニメ・マンガ(コミック)の中でそれぞれが好きなものについて深い知識を持っているが、シェイクスピアチャップリンというテレビでも出てくるような一般的と思われている知識が共有されていない。

メディア考古学はそれに対する解決策を提示していると考えている。

それを示すために今日扱う問題点

  1. 現代の社会的現実と文化的傾向が変化していくことによってますます困難になっている人文学の価値というものは私たちの時代において盛り上がることができるのだろうか。
  2. 多かれ少なかれ21世紀の現在と似ているような過去の類似物を集めるという研究にはどんな価値があるのだろうか。
  3. 人文学は現在の困難さを拒絶するべきなのだろうか、それともアイデンティティをもう一度考え直すことで受け入れるべきなのだろうか。

こうした問題を考えるために重要なキー概念としてまずはポストヒューマンを取り上げる必要がある。これは昔から問題になっていて、例えばチャップリンが機械の一部になって見せるような映画あるように、個人が工場といった場所で機械の一部になっている現状があるからだ。

ポストヒューマンを取り上げる理由のもうひとつの参照点。ルネサンスで今の人文学の原型となるようなものが生まれた時に、そこでは全学に精通する人間、世界との調和といったモデルが生まれたが、Da VinciのThe Vitruvian Manなどその典型。現在、ポストヒューマンにおける人文学を考えるのであれば、Thomas Charpentierの"The New Standard"が示唆的と言える。これは、調和からハイブリッドからバラバラな要素への移行へと言える。

こうした観点からの人文学としてもちろんダナ・ハラウェイのサイボーグなどが重要。最近の傾向としては、Francesca Ferrandoのアンチヒューマニズムの概念をまずあげる1。 そこでは、いわゆるAIによる労働代替や、情報技術の発達による人間の知識の蓄積としての人文学の終わりといったことが「自発的な人間の絶滅(Voluntary Human Extinction)」として語られている。Ferrandoのほかに、Rosi Braidottiの『ポストヒューマン』があげられる。そこではヒューマニズムの未来をめぐって、ネオ人文学といった構想が練られている。こうした未来の人文学とは別にどこか懐かしい響きのものもある。それが、Sven Birkerts, The GutenBerg Elegies(1994)やChanging the Subject(2015)。これは衰退していく旧来の人文学における読解の重要性を考えるもの。

こうした人文学のペシミシスティックな未来とは別に現代の情報技術が人文学を豊かなものにするだろうというものがある。それが人文情報学(Digital Humanities)。特に、Anne Burdick他のDigital Humanities(2012, フリーアクセス)の序文は楽観的で希望に満ちている。

人文情報学は以下のような形をとっている。

  • デジタルな学術出版
  • デジタルライブラリやデジタルコレクション
  • テクストマイニング
  • デジタル環境での教育
  • データベース(いわゆるビッグデータの解析)
  • 新しい言説分析(トポス考古学でやっていること)
    • この試みのひとつとしてThe Public Domain reviewという事例があげられる。オープンアクセスの資料のキュレーションであり、エッセイなども充実。

では人文情報学はメディア考古学にどう適合するのか。メディア考古学については、私の翻訳された『メディア考古学』やJussi Parikka, What is Media Archaeology?などを参照のこと。そして、メディアと技術に関する研究は人文学的な傾向のものとポストヒューマニズム的な2つの傾向があり、メディア考古学やトポス考古学は前者に入る。他にも、 Deep Time of the Mediaで提示されているArchaeologyという概念で有名なSiegfried Zelinskiも入る。ただし、それがネガティブなのかポジティヴなのかはわからない。ポストヒューマニズムの方向性としてはもちろんキットラーのテクノマテリアリズムがそう。もはやテクノロジーによって支配される大きな物語を望んでいたかのよう。そして、その弟子のWolfgang ErnstはJussi Parikkaと共著でDigital Memory and the Archiveを出しているが、極端なアンチヒューマニトの雰囲気がある。人間なしで機械の仕組みだけでから考えるという姿勢。

こうした中で、人文情報学の提供してくれる様々なアーカイブスやデータベースを利用したトポス・スタディーズによって文化の中に見られる言説、すなわち人間の思考のプロダクトを見ることができる。例えば、Erkki Huhtamo, Illusion in Motion: Media Archaeology of The Moving Panorama and Related Spectacles, MIT Press, 2013.また、新しい著作では、写真の歴史をメディア考古学の観点から描きなおしている。

ドミニク・チェン

「情報技術による人文知の刷新:知能から自律性の増幅に向けて」Innovation of Humanities with Information Technology: From Intelligence Augmentation To Autonomy Amplification

AIについて

マレー・シャナハン『シンギュラリティ』Technological Singularity, 2015

Is there a compromise position between conservative anthropogenic is mans posthuman fundamentalism?

Evocative Interface

自律的に考えて、作っていくことを支援するものとしての機械学習人工知能

Happiness and Well-being

  • 20世紀に入ってからの再定義
  • 人間の能力の自律性(能力の開花)
  • Well-beingについてのアンケート、心臓ピクニック。
  • 情報社会ではSNSを中心にしてWell-beingがシリアスな問題となっている。
  • シェリー・タークル『一緒にいてもスマホ
  • Nir Eyal, Hooked <=認知心理学的なシステムデザイン
    • Eyalが所属していた研究室の出身者は最近、こうした認知心理学の利用を拒絶。
    • Facebook役員なども離反して、現在の設計を批判。

Article: Aylin Caliskan, Joanna J. Bryson, Arvind Narayanan, “Semantics derived automatically from language corpora contain human-like biases

現在の課題

  • 知能増幅Intelligence Amplification till 1950, ダグラス・エンゲルバート(マウスの発明者)。
  • サピア・ウォーフ仮説に強く影響を受けた。そのほか、Memex構想、サイバネティクス
  • 道具によって知性が規定される、という仮説をエンゲルバートが唱える。
  • これは、情報の冗長性を廃し、効率化するという思想を支えているものである。

しかし、情報の効率性だけで文化的対象を扱う(草稿など)ことはできない。

  • typetrace の開発。
  • 各キータイプ間の時間感覚を計算し、リアルタイムでフォントサイズに反映。
  • 参考:木村大治『共在感覚』
    • 共和的な話し方。水谷信子。日本語における「あいづち」の問題。インターフェイスの応用が可能?

東浩紀

「観光としての哲学、あるいはダークユートピアについて」Philosophy as a Tourism, or on the Dark Utopia

人文学は今後生き残っていくのだとしたら、どのような視座を確保していくか、ということを考えるとアニメなどをポップカルチャーを扱うことは絶対的なことではない。アニメやマンガの分析は古くなる時代が確実にやってくる。

  • ポイント:新しいものがやってきたとき、どうするか?
  • 軽薄さやふまじめさというものが非常に重要。
  • この中間の領域を確保するのが重要だ、というのを論じる。

資本家か国家か、という二極化に抗うこと。

  • 金のあるやつがなにかやるか、国家から補助金をもらってなにかするしかなくなっている。
  • システムを使って別の結果を生み出す。これは情報社会において悪となっている。
  • 検索とは最適化のこと。経路の抹消。

交換の外部の設定としての贈与(公共性、オープン、シェア)。交換の失敗としての贈与。

現代の観光。見たことがあるものを見に行くという構造。反復強迫的な行為。

19世紀におけるふまじめさの拡大。ふまじめさ=楽しさ

  • 現在のテロの対象は楽しさを標的としたもの。本当にテロとは政治的行為なのか?政治的効果以外にみるべきものがあるべきなのではないのだろうか?

反復する行為であるものの、差異を生んでいく。誤配。シュミット的政治的分割に抗うこと。

パネルディスカッション(だいたいの発言)

フータモ 東さんのツーリズム論はとても挑発的であり、刺激的でした。東さんが観光と読んでいる哲学的行為は、メディア考古学と似ている点があると思います。タイムマシンの旅のように、別の時間と場所をめぐる、という行為は観光に似ているからです。インターネットでさまざまな資料をめぐる時に別々の要素を見つけるとき、まさに観光を感じます。また、決まりきったものを見にいくということ、モナリザをわざわざ見にいくこと、他の事例をあげれば、日本のテレビ番組で見たのですが、地方の村で蕎麦を食べるというものでおいしそう!と言っているものもそうですが、それは同じ蕎麦に決まっているわけです。こうしたクリシェが観光にはあります。クリシェを見つけるということが重要になるということです。トポス考古学においては、クリシェを見つけてそれがどんな意味を持っているのかということを研究します。

僕もフータモさんの発表に対して過去への観光という印象を感じていたので同じように思っていただいて光栄です。ところで、マキァーネルの観光についての研究書では、19世紀末のパリの観光ガイドではモルグなどが紹介されていることが言及されています。それは自分たちが住んでいるところでは見ないものです。自分の国の中にいるときには見ないものがいっぱいあるわけです。別の国にいくと、物事を見る網目が粗くなるので見えるようになる。他の国にいくことで、見えなかったものが見えるようになる。これは観光において非常に重要なことです。フィルターバブルの話をチェンがしましたが、それも関係していると思います。

草原 フィルターがなんであったかを見つけるということですね。

チェン なんでもITのせいにされている現状があります。僕が言語から抜本的に考えているのは、まさにフィルターをどうするかということでもあります。僕も東さんの発表に啓発されたのですが、質問があって、メルマガで書いていた「新しい深さ」ということについてです。また、ふまじめさからまじめな観光客へと変わっていくこともあるかもしれないということを思ったのですが、そういうことについて何かお考えはありますか?

答えるのが難しいです。観光客の哲学という本は政治哲学の本です。いまやろうとしていることはメディア論で、直接はつながらないかもしれません。今の時代、視覚メディア優位ですが、僕は実はそうではないのではないかということをそこで考えています。近代では窓と遠近法がメタファーで重要でしたが、いまのインターフェイスでは窓は重なっています。それはどういうことなのでしょうか。アラン・ケイがかつてインターフェイスについて語っていたこととして、粘土のように触れること、と触覚としてとらえていました。ケイが初めてインターフェイスを考えた時、コンピュータのなかに手を突っ込むことができることできるものとして考えたのであり、世界を覗くものでないのです。遠近法ではなくて触覚のモデルで考えることが重要なのではないか、ということです。これが「新しい深さ」ということで考えていることです。かつて映像は触ることはできませんでした。インターフェイスで触覚と写真がつながり、映像もそうです。メディア経験はこうして大きく変わっていて、もしも政治哲学の話につなげるとするのであれば、接触すること、タッチ、かつてなくそれがあらゆる場面で重要だと考えています。

チェン GUIの設計の中でリアクションと呼ばれるものがあって、フォースフィードバックがあるかないかが行為をエンハンスするというのが思い出されます。

インタラクティブというのはそもそも触覚ということだと思います。視覚はそもそもインタラクティブではなく、インタラクティブという概念が入ってきた時にもう触覚的なものだと思うんです。

チェン なるほど。ケイがインターフェイスを考えた時に創作のためにそれを構想しましたが、SNSではフィルターバブルといわれているのは言語の触覚性が問題になっているかもしれません。

草原 伝統的な人文学では、テキストを読むことで知識の蓄積ができていました。人文情報学がそうでしたが、果たして元来のやり方でやっていけるのか、ということです。様々なメディアがあり、私たちがそこでいったりきたりしてるなかで、人文学のやりかたは当然アップデートされるべきだと考えられるわけです。

千野 コミュニケーションはいま単線的ではなくて、複数に分岐しているように思われる。サブカルチャーの中にいる若者は実際の世界と妄想の世界が極めて強く分裂していると思われますし、観光客もそうでしょう。また、団体旅行というものはステレオタイプを増殖するようなシステムであるようにも思われます。

いまのことに関して言えば、観光はとうぜんネガティヴなところがあります。観光についての可能性を新しく指摘したのが僕の著書です。

チェン 千野さんがおしゃった団体旅行を触覚として捉え直すと、寄り道を許容しない団体旅行は単線的できわめて接触が少ないです。ところで、Air&Bnbでは、そこでホストをしている人がいる場合は、地元のお店に連れて行ってくれます。ツーリズムではないアドベンチャーとして接触を求めている人がいると思います。

フータモ いま、文化のあらゆるところでふまじめなことが起きています。私の身近なところでは裸のセルフィを送りあったりすることが問題となっています。寺院で下半身を晒してしてしまったセルフィもそうです。そういう行為は最悪の場合、捕まってしまうわけです。そこで東さんに聞きたいのは、ふまじめの本質とはなんなのでしょう。ふまじめさでは、ソーシャルメディアの中のモデルを何か参照しているのでしょうか。また、東さんがやっているチェルノブイリに行くというダークツーリズムについてもそうでしょう。それはたしかにふまじめさがありますが、ワークショップを開くという教育的要素があります。やはり、ふまじめさの厳密な定義みたいなものが知りたいです。

難しい質問です。例えば、いいふまじめさと悪いふまじめさがある、と述べるとまじめふまじめの分割線を再生産してしまうのでそれはできません。ふまじめさをどのように教育的に使えるかということをケースバイケースに考える必要があると思います。ツアーのあとのワークショップでは、観光中にとった3枚の写真を取り上げてもらって、感想を言ってもらうということをしています。もしもそれなしでプレゼンさせると、それこそクリシェしか言わない。しかし、3枚のスマホの写真を選ばせると、そこに問いが生じて、クリシェでないことを思い出すわけです。また、ワークショップをやるのは、チェルノブイリにいくということは特殊なことなので、ふだんの生活でシェアできないわけです。だからクリシェに回収されないための時間と場所が必要なわけです。ふまじめなものに注目するということは、理論的に定義してしまった瞬間に、ふまじめでなくなっていく。すなわち、実践的に行うことでしか主張にしかならないのです。これが答えになります。

チェン 誤読かもしれませんが、ツールとして人間のふまじめという状態を別の目的に利用しようというものだと考えています。リグレトという匿名掲示板は、一般的に言われているのは匿名掲示板は荒れやすい、ということですが、ここでは無責任に人を励ます場をなんとなく作りたい、というところから始まりました。無責任、つまりふまじめに人を励ますことである程度機能します。設計できるふまじめさもあると思います。

フータモ ありがとうございます。別のことについても話したいです。ふまじめさのクリエイティヴィティというものがあります。パルクールというフリーウォーキングがありますが、UCLAでも多くの若者が興じてます。アンリ・マティスの高価な作品のうえを飛び回っているわけです、彼らは気づいていないでしょうが(笑)。それはストリート文化から始まりました。ロッククライミングのプロダクト化と高額化の結果、パルクールがストリートで生まれましたが、またパルクールというふまじめなクリエイティヴィティがプロダクト化していくのでしょう。

たとえば、ラジカルなアートがプロダクトになると、それはもうラジカルではないと思います。ラジカルと定義され、美術館に収められてしまうともうラジカルではないわけです。中間にこそ、ラディカリティがあるのです。

草原 先日アメリカの日本戦後芸術展で展覧会があって同じ構造がありました。つまり、アートでないものとして提示された前衛がアートの中に取り込まれてしまったわけです。また、日本のメディアアートはまじめじゃないからアートじゃない、と批判されることが非常に多い。アートの中にまじめさが広がっているように思われます。

フータモ Chim↑Pomの渋谷での活動は素晴らしいものがありました。例えば、ドブネズミを捕獲してピカチュウに加工するというものですが、こうしたふまじめな活動は新しいものを生み出しています。

オープンとクローズか、どっちかになっていること、これはアートかそうでないかということをつねに人は考えてしまうわけです。分類して、収蔵するということが持っている不自由さというのも意識しなければなりません。また、touchingに話を戻すと、人間関係は接触によって広がっていくわけですが、これはウィトゲンシュタインの家族的類似性です。接触的な組織のつくりかたです。類似というのものの本質はじつは接触にあると思っているわけです。視覚的に内外をわけるのではなくて、社会だったり考え方をどのように構築するかという問いがあるわけです。合法なデモがあって、非合法なテロの分割線、アートかアートでないかという分割線、それは概念という回収されてしまうものでなく、個別的な接触によって壊していくしかない。僕はチェルノブイリに100人を連れて行きました。それは福島に関する言説に何の影響を与えはしないでしょう。しかし、後者は結局のところ、友敵の理論に回収されてしまうのです。

チェン VR技術の1つの可能性は、接触による影響が広がっていくということです。テレポーテーションのようにしてリアルな体験をしていくことで、メッセージのあり方もかわるでしょう。

100万人を動かすととてもシンプルなことしか伝えられないです。VRなどの技術によって情報の受容の仕方が変わればメディア社会も変わると思います。

フータモ とても面白い議論です。インターネットの時代において、できるだけ小さな規模の集団で話すということです。古い例を挙げてみましょう。まず、ダダです。ダダはスイスのキャバレー・ヴォルテールでとてもラディカルな若者たちによって始められました。これはのちに大きな運動になりました。他にもありますが、それは1950年代の状況主義者(situationist)です。ギー・ドゥボールなどが始めたその運動は非常に小さいものでしたが、その後の10年で大きく広がって行きました。もちろんそれは政治化されシンプルなものとなっていましたが、こうした事例はとても示唆的だと思います。何人かのラディカルな人から大きくなっていく運動というのをどうやってつくっていくのが重要です。ところで、状況主義はラディカルな観光だったと思います。サイコジオグラフィックにパリに関する新しい地図を作っていったのですから。漂流して、さまよって、知らない場所にいくということ。これはいまだに重要だと思います。私も先日やりました。浅草などを江戸時代の地図を見ながら歩いたのです。そして交番で道を聞く時に、それを見せながら道を尋ねたのです。彼らは私たちをBAKAだと思ったでしょう(笑)。しかし、それによって今見ている視点を大きく変えてくれるのです。陣内秀信先生の、東京の古地図を使って運河をめぐるというアイディアが非常に好きです。大きなインスパイアを受けています。

チェン 私もそういったことが大変面白いと思います。GPSでもって絵を描くといったアーティストもいます。また、車の自律走行などにも関係していると思います。自律走行自動車は現在、最短経路の探索が目指されています。しかし、ポジティブフィードバックが起きるためには多少のネガティブがないといけません。ですから、最短経路をめぐり続けることは必ずしもストレスを軽減しないといった事態が起きるかもしれません。ただ、ドゥボールが作っているスペクタクルの社会の映像はあまりにまじめで、つまらないです(笑)

状況主義がきわめて政治化されたのは60年代なのですが、その前はかなりいい加減だったから面白かったんですよね。政治的フィルターをはずさないとわからないです。

フータモ 千野先生に質問があるのですが、アジアの国々でのコミケではみながコスプレを楽しんでいました。あなたはそこにどのような可能性があると考えていますか。彼らは想像世界にひたるためにやっているだけ、キャラを演じるという役割を行っているだけなのでしょうか。

千野 私が感じたのは、サブカルチャーそのものに意味があるかどうか問題ではありません。19世紀以降に近代の価値が固まってきましたが、いまの若者にとってそれが意味を持たなくなるのは、それがサブカルチャーによく示されていることです。それは社会状況が文化に影響を与えていると思います。これに未来があるかどうかもわかりません。こうした議論は、例えばまじめさという価値体系だけがあるんです。つまり、中間項があまりにも多いということなのです。こうした時に問われるのは、「これは許せない」といったものではないでしょうか。これは政治的に恐ろしい問題だと思います。古い問題ですが、非常に新しい問題であります。