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言語態研究会ワークショップ 第一回研究発表

〈文芸誌を再考する〉 バルザックと文芸誌の詩学《序》

発表者 谷本道昭

* これは2017年12月27日に言語態研究会ワークショップにて発表された内容を執筆者(佐藤正尚)の補足によって公開したものです。よって言語態研究会の公式ページではありませんし、内容に関して間違いや不適切な表現がある場合、すべて執筆者の責任となります。また、興味関心のあるかたは、言語態研究会ホームページにご連絡ください。


概要

出版史研究と文学史研究は徐々に合流し始めたが、作品解釈において出版史の研究をどのような形で理論的 に寄与させるのかについてわからないことが多い。また、他の国や地域における出版史と作家や作品との関 係を知ることも今後は大いに役に立つと考えられる。言語態研究会では、他にもいくつかテーマに基づいて 活動しているが、主に出版史と作品解釈の関係を考えるためのワークショップを継続的に開いていく予定。

報告

フランスでは、出版史研究は90年代に整うようになった。2000年代になるとインターネットの登場で、19世 紀前半の新聞雑誌へのアクセスが容易になり、研究が広がる。発表者は専門領域がバルザックなので、バル ザック研究の状況などを踏まえつつ報告があった。

バルザックの活躍し始めた時代の出版史を概観する前に、彼がの活動の場となっていった文芸誌、すなわち la revue littéraire の、revue がそもそもどのような意味なのかを確認しておく。revue が雑誌を意味するようになったのが19世紀前半からであることは、アカデミーフランセーズ辞典第6版(1832-1835)からうかがえる。それまでは、見回り、視察、綿密な探索などを意味した。定期刊行物の意味として定義されるようになるのは、エミール・リトレ仏語辞典(1873-1877)あたりからである。

では、フランスの出版史の大まかなところを見ていく。基本的に、フランスの出版の歴史の起点は、フランス革命に求められる。1789年に宣言された『人間と市民の権利の宣言』での第11条には「法によって定められている自由の濫用にあたらない限りにおいて、自由に話し、書き、印刷することができる」とあり、これが出版の全面的な自由の宣言と捉えられ、19世紀を通じての出版の発展の起点となったとされる。ところが、「法によって定められている自由の濫用にあたらない限りにおいて」の文言が示唆しているように、あらゆる出版物は警察による検閲によって管理されていた。そして、その体制は杜撰なものだったことが報告されている1。その後、ナポレオン帝政期に入ると、検閲を撤廃する代わりに、『フランス書誌(Bibliographie Français)』に書誌情報を乗せることで出版物をコントロールするようになった。

1820年代に入ると、政治新聞がブームとなり、以下のような新聞が相次いで刊行された。 - グローブ Le Globe - 年間購読料48fr 週3回発行なので少し安い。 - サント・ブーヴが評論を執筆していた。 - ジュルナル・デ・デバ Journal des débat - 年間72fr 当時の水準では少し高級。 - コンスティチュショネル Le Constitutionnel

この他にも、プチ・ジュルナル(小新聞)と呼ばれる少し判型の小さな非政治的な内容の書かれた新聞2が発刊されていた。これらには、韻文を中心に文学作品が多く掲載されていた。

このようにフランス革命以降の出版が流行していくこととなるが、その流れは一旦頓挫することとなる。それは、1830年七月革命の後、王政復古期によって出版事業に対する締め付けが強化されたためである。事前認可による検閲が復活し、その後、定期刊行物の出版の自由を禁止するようになった。すると、抗議文がThiers, Cauchois-Lemaire, Châtelain, Rémusat, Bohainといったジャーナリストによって起草され、リベラル派『ナショナル』誌に掲載された。

この頃、ジャーナリズムの世界でも、リベラル派と王党派(ユルトラ)が対立し、文学者たちもそうした分布図に一致した派閥を形成していた。文学史ではよく知られているように、19世紀前半のフランス文学はロマン派(ロマン主義)と呼ばれる潮流を形成していた。ユルトラを代表する作家としてヴィクトル・ユゴーを挙げることができるが、ユルトラはナポレオン帝政期に登場してきた新人を多く起用することで新しい勢力を作っていった。いわゆるリベラル派はその作品の内容など様々な理由から、ユルトラとそれが評価する新派と激しく対立した。ただし、ベニシューがロマン主義の趨勢を描いたように3、リベラル派のロマン主義が中心となっていく。

ところで、出版史は歴史的・政治的・文学的な観点の他にメディアの観点からもその考察が求められている。それは、印刷方法の変化であったり、インクや紙の原材料の変化であったりするが、今回はとりわけ判型の変化が重要となる。現在の日本でも、文芸書単行本は四六判、学術書は菊判で製本されており、とくに前者に関して、必ず文庫本ではなくてまず単行本から出版するという風習があるように、判型はその国の出版史を反映している。判型は時代によって基準となる大きさ自体はまちまちなので、基本的に比例によって判型は区別される。具体的な呼称は以下の通りである4

  • 一枚の紙 単位は「葉」(feuille)
    • 1ページ
  • 二つ折り (フォリオ folio)
    • 表裏を含めて4ページ
  • 四つ折り in-4° (クアトロ quarto)
    • 8ページ
  • 八つ折り in-8° (オクターボ octavo)
    • 16ページ
  • 十二折り in-12° (ドゥーズ douze)
    • 24ページ

先ほど日本の例をあげたが、例えば、Journal といえば大きな判型(フォリオないし四つ折り)が定番だった。19世紀の作家にとって、十二折りより八つ折りの方が権威の高いものだと感じられた。

出版史に戻ってみると、1830年代から新聞から雑誌への大きな違いは判型の違いである。初の文芸雑誌、『パリ評論(Revue de Paris)』(1829-)は八つ折りで、非政治的(apolitique)という特徴があった。『パリ評論』の編集長Louis Véronの考えでは、文芸誌を、政治新聞に掲載されていた文学作品は、狭いサロン的な閉鎖性があり、政治的な生真面目さがあった。記事の多くが匿名であった。『パリ評論』はそれに対して、非政治的で、真面目さよりも小説としての面白さを重視し、記事には全て署名がつくと宣言した。

詳しく『パリ評論』の出版形式をみてみよう。十二折りでなく、八つ折り16ページ×4の64ページそれが月4回出て、製本すると256ページの本となった。今読んでも遜色のない活版技術で、年間購読費用は80frかかった。この判型が『パリ評論』の成功だったと言われているが、値段の高さから階級の高い人々に読まれていた。また、女性を読者対象としていた点でもそれ以前の政治新聞から大きく分け隔てられていた。これ以降の文芸雑誌の判型は全て『パリ評論』と同じ八つ折りで刊行された。『パリ評論』の成功の秘密は、The Edinburgh ReviewThe Quarterly ReviewRevue britannique といったすでに評価を得ていた海外雑誌を参照し、国内では Le Mercure de France au XIXe siècleJournal des débatLe Globe などを参照することで、受け入れやすい紙面づくりに配慮していた点が考えらえる。その後、1831年には『両世界評論(Revue des deux mondes)』が同じような内容で刊行され、年間購読料は40frという安さであり、『パリ評論』と同じく海外雑誌や国内雑誌の美点をうまく組み合わせ、人気を博していった。

文芸誌では、主に散文作品、すなわち小説が掲載されていたが、ここにきて新しい形式の小説が流行することになる。それがコント(conte)と呼ばれる形式である。コントは日本語では短編作品と呼ばれるものの、その長さは、オクターボで2葉と1/2、すなわち40頁ほどの長さなので、日本語の意味する短編よりかは多少長いものと言える。また、報告者の研究対象であるバルザックは、1832年に次のような手紙を『パリ評論』編集長のAmédée Pichotとやりとりしている。

ひとつきで2葉と1/2を超えてしまったら、私たちは困ることになるでしょう。他の寄稿者にも同じようにページが必要だからです。はっきり言えば、作者の能力がどれほどのものであれ、2葉を超える記事はほとんど読まれないのです。(Pichot)

コントだけを書くということについては、たとえ私の考えではコントが、それも邪説なのかもしれませんが、文学の最も貴重な表現であるとしても、私はもっぱらコント屋であることを望んではいないのです。私の天命は別のところにあります。(バルザック5

バルザックがこの頃執筆していた小説の代表作として『あら皮』を数えることができるが、『あら皮』の長さは現在の私たちにとって短編という長さではとうていありえない。このことからわかるように、コントというのは当時の文芸誌の状況に規定されいた文学形式であり、それはバルザックがコント屋=Conteurとして活動していた時期に作品解釈に際しても影響してくるのではないのだろうかと考えられる。また、バルザックはこの時のやり取りをきっかけに『パリ評論』と決裂してのちに人間喜劇を代表とする作品群を描いていくことになるのだが、Conteurとして文芸誌黎明期に活動していた頃はバルザック研究で焦点が当てられることがない。この点について報告者は博論で議論を展開しているが、さらなる研究が必要だと考えられる。

最後にバルザックのこの頃の活動歴を見ておこう。バルザックは1835-1838年にかけて Chronique de Paris といった雑誌を運営していた。また、文芸誌が成功していくと大手書店が倒産していったのを目の当たりにしたバルザックは、「全国予約購読者協会(La Société d'abonnement général)」を考案することで新しい書籍販売の形式を考えた。その背景には、高級な書籍を読む人は少なく、借りて読むものであり、著作者に金銭が払われることがない場合があるといった流通と著作権管理の問題があった。バルザック小新聞で活躍していた経験から全国予約購読者協会を実現しようとしたが、試みは頓挫した。

質疑応答


Q.文芸誌と新聞投稿を両方をしていた人たちもいると思うが、どのような関係があったのか。

A.フランスの場合は明確で、時系列でメインをしめる媒体が大きく変わった。1800年から1830年までは新聞の時代、1830年から1836年は雑誌の時代、1836年以降は小説日刊紙(Roman Feuilleton)の登場によって新聞の時代に戻る。

Q.結局、草稿やゲラの直しはどこまでみるべきか。

A.当時のフランスでは植字工の権限が強く、教養もあったため、文法的なミスや表記の統一などを兼ねていたこともった。ゲラまでの異同を見ても、最終的な変更は完全には追い切れない。そして、調べてみても作品には影響にあまり影響が出ない場合もあるので、ケースバイケースで筋が通るような考えが必要。


  1. M. Le baron Locré, Discussion sur la liberté de la presse, la censure, la propriété littéraire, l'imprimerie et la libraire, qui ont eu lieu dans le conseil d'état pendant les années 1808, 1809, 1810, 1811, Paris, Garnery, 1819.

  2. 出版史家のMarie-Ève Thérentyは、小新聞は直接ではないものの、風刺によって政治的話題を婉曲に扱っていたと指摘している。

  3. ポール・ベニシュー、『作家の聖別―フランス・ロマン主義〈1〉一七五〇‐一八三〇年―近代フランスにおける世俗の精神的権力到来をめぐる試論』、水声社、2015。

  4. 詳細はフランス語版 wikipediaを参照のこと。

  5. 書誌情報欠落につき調査中。