南礀中題

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冥王星とサソリ自殺論争

冥王星バスティーユ

もしもそれが20世紀の早い時期であるならばきっと「新展望」と訳されたはずの無人探査機から冥王星到着の通信が届いたのが2015年の7月14日であるならば、そこではまず間違いなく革命の話をしなければならない。バスティーユ襲撃から始まったあのフランス革命もまた、3世紀前のその日に起きたからだ。実際、この日のほとんどのSNSではパレードの写真と冥王星の近接写真が交錯する奇妙な出来事が起きていた。

しかし、たとえばその重なりがいかに興味深いといっても、ネットではよくあることとして記憶されるに値しないというのであれば、それももっともだ。もしも、19世紀にオーギュスト・ブランキがいなかったのであればの話であるが。

ブランキの『天体による永遠』

パリ・コミューンによる闘争として記録され、文学史においてはランボーがその闘士たちの亡骸の転がる道を歩いたと記憶される1871年、すでに66歳という老齢であった革命家オーギュスト・ブランキは革命の前夜に逮捕された。そこから1日かけて収容されたのは、ブルターニュの海沿いの街モルレーにあるトーロー要塞であった。彼が革命家として活動している間、どの政体になっても必ず一度は彼は牢に入れられていた。ブランキはそれほど脅威だと思われていた革命家であった。

そういった歴史的な事実を踏まえたうえで彼がトーロー要塞内で『天体による永遠』という、一見してほとんど革命と無関係と思われる本を書いたことがブランキの評価を複雑に、そして同時に豊かにしている事情である。『武装蜂起教範』というバリケード闘争の教本を著した同人物が19世紀の知識人らしく天体に興味を持っていたから自分の革命思想をそこに擬えただけと簡単に片付けることもできるだろうが、『天体による永遠』を読むとどうもそうはできそうにない。それでは、ここからは日本語でアクセスフリーの論文のうち、最もまとまっていて鋭い問題提起も行っている鈴木雅雄の論文「星々は夢を見ない」に依拠しながら『天体による永遠』を紹介しよう。

ブランキの生きていた19世紀フランスにおける社会闘争の歴史は、図式的に整理すると、少数エリートによる武装蜂起からストライキによる抵抗へとなる。オスマンの改造計画によってパリでは道路拡張などによってバリケード闘争が不可能になったために1880年代から後は武装蜂起モデルはほぼ現実味を帯びないものであった。ところが、時代錯誤的に、ブランキはその限界においてのみ革命を思考したといっていい。さらには、彼の生きていた時代はマルクス主義の台頭とともに、その進歩史観において、必然的に到来するはずの理想社会へ前進するという考えがあったがブランキにはそれもなかった。では、彼の革命思想とは一体何だったのか。

彼の思想は、彼が発行していた新聞『カンディード』に書いていた宗教批判、同時代の地球外生命体論争や多世界論との比較、さらにはベンヤミンの評価を中心に形成されるブランキ観など、多角的に見る必要がある。しかし、それは鈴木雅雄によるブランキ論を一読すれば判然とすることなのでここではそのエッセンスだけを記す。

『天体による永遠』の議論は3点に分かれる。(1)彗星について。ここからは彗星が未知の物質で構成されている外部から到来するものだと考えられる。(2)カント=ラプラースの星雲説批判。ここでは(1)を受けて、全く必然的でない外部、すなわち偶然的な要素によって宇宙は変化していくという説が導かれる。(3)彼の宇宙観の提示。彼は19世紀中頃に発達した分光学によって明らかにされた他の恒星もまた太陽と同じ成分で出来ているという科学的発見を受けて以下のような宇宙観を提示する。「無限の宇宙に点在する無限個の天体が有限の要素によって構成されているのならば、元素の組み合わせによって作られるものもやがては数が尽きてしまい、あとは反復されるしかない。だからこの地球上に存在するすべては宇宙のどこかにそのままの姿で反復されているはずであり、そこでなされうるはずのすべてはすでに無限回なされ、今もどこかでなされつつあり、また未来においても無限回なされるのである」(鈴木雅雄「星々は夢を見ない」より引用)。

(3)に説得される人はほとんどいないはずだ。有限の要素から生成される存在はその作られる数が限られてしまうといっても、その要素の単位の定義によって議論は錯綜するだろう。例えば、それが有限個の分子(ないしここでは原子でも構わないだろう)だったら、その振る舞いが限定的な、いわば秩序だった反復になるなどというのはありえない話である。*1

しかし、そのような批判はここではあまり意味をなさないだろう。彼はこの議論の3点から一体いかなる革命を志していたのかが問題なのだ。

彼のこの「どうせ反復にすぎない」という強烈な宿命論的な幻滅は、同時代に対して徹底的にずれている。そして、ずれているからこそ彼があぶり出した時代の見ていた夢がかえって浮かび上がってくる。その夢とは、自然が永遠不変の秩序ではなくてある歴史を持つのだというものである。その歴史の描き方を工夫することで、人々は時代に意味と方向性を持たせようとした。ブランキがそこからずれているのであれば、彼には意味も方向性もなかった。そうだとすれば彼の革命にはおそらく目的、つまり目指すべき場所もない。だとすれば、何があったのか。それは直情たる怒りであると言って良いだろう。

眼前の不正に対する単なる抵抗には、目的も目指すべき社会のモデルも必要ではない。革命的ロマンティシズムにありがちなたとえ失敗したとしても抵抗は美しいといった考えもそこに入る余地はない。とにかく今そこにある承知できない何かを可能な限り打ち壊すこと。無限の反復においてどこに入るかわかるはずもないが、宇宙の原理たる偶然性による動乱が事後的にしか知り得ない分岐を導くだろう。彼が何度逮捕されても決して革命をやめなかったわけはおそらくこの宇宙論によるものだろうし、そう考えるのはとても自然に思われる。

「19世紀から20世紀」の科学

19世紀後半から20世紀の前半にかけての科学的発展の驚異的なスピードは、例えばブルーノ・ジャコミーが『技術の歴史』で歯車や車輪を中心とした技術によって人類史を描いていたのを思い出すと、人類の数千年の歴史が描かれているのにも関わらず本の中身の半分はたった数百年のことでしかないことからもよくわかる。

そして、技術の進展はもれなく社会の変化と切っても切れない。それらは相互的なものであり、一方から他方へそして同時にその逆へアプローチが可能だ。近年いや増して注目される論者の多い広義のメディア論者たちが数理的アプローチをとる傾向の高い社会学全般に対して持つだろう有効性はそこにあるだろうし──楽観的な見方ではあるが──、彼らのそのほとんどが19世紀から20世紀にかけてを研究に選んでいるのも、現在まで地続きの歴史と社会を取り扱うことができるからだろう。そして、何よりも19世紀の科学と科学的な議論は今から見ても非常に興味深いものが多い。やはり、それがいつも21世紀の科学の輪郭線になっているからだろう。

スイングバイ航法を代表とするような精密な制御によってたったの9年でそこにたどり着いた新展望が送ってきた冥王星の鮮明な画像はすでに多くの議論を呼び起こしている。例えば降雪と思われる画像。それが降雪であるならば(それが水分だけでできているかまだ誰にもわからないが)、地球外生命体の発見につながる可能性が増え、何よりもヒ素によってできた生命体を発見したという誤報をしてしまったNASAとしてはヒ素に限らず別の形で存在する生命体を再び論じることチャンスが得られたわけだ。

この一連の出来事はその向きには火星運河説を想起させるだろう。フランスでは天文学者(正規ではない)兼心霊学者であったカミーユ・フラマリオン、アメリカでは天文学者パーシバル・ローエルが論者として有名である。しかし、そもそも火星に運河があるという話そのものが、イタリア語で「溝」といった意味を持つに過ぎないcanaliをclivageといった語でなく「運河」canalと誤訳してしまったことに端を発することが明らかにされてしまい、何よりも望遠鏡の技術的進歩によって火星観測の精度が上がったことから科学的事実によってその議論は終わりを迎える。

もちろん、だからといってフラマリオンやローエルを無下にすることはできない。むしろ、彼らが位置した科学思想の背景を明らかにすることで、時代や社会、特異な思想家の価値を適切に判断することができる。天体観測によって発見された科学的事実に立脚して自らの革命思想を鍛えあげていったブランキの思想を詳らかにすることで、時代の輪郭がかえって明快になったように。

ただ、天体といったマクロな視点以外にもあったミクロな視点を忘れてはやはり19世紀から20世紀の科学を知るためには心もとない。ギュスターヴ・ル・ボンやシャルコーといったような人間の行動や心理を明らかにしていくような試みもあれば、(いささか怪しさがあるものの)ファーブルといったような昆虫の行動について考察するような試みもあった。

今回はいささかスキャンダラスな論争を紹介したいので後者について話をしよう。それは、「サソリ自殺論争」とでも呼べるものだ。

サソリ自殺論争

1910年10月、大衆科学雑誌『自然』1951号に記者ジョゼフ・ドルソが「サソリは自殺するのか?」といういささか扇情的なタイトルを付けて掲載したのはインド洋に浮かぶロドリゲス島の主任司祭だったJ. M. ピヴォー氏からの手紙の紹介と短い考察である。その冒頭を見てみよう。

ある状況下においてサソリが自分を殺したり、自害したりするといったことが長らく繰り返し言われてきたことや、その事実が今日では一般的には異議を唱えられていることが知られてる。ピヴォー氏によれば、「私は自然学者プリニウスやアウルス・ゲッリウスにおけるその事実を読みましたしが、もはやこれ以上思いだそうとはしません。その古代の著作家が私たちに言っているのは、サソリは火に囲まれてしまった時に、その毒針を自らに刺し、その命を絶つということなのです」。ピヴォー氏は付け加える。「私はあまり信じているわけではないと付け加えますが、それにも関わらずセネガルやとりわけスーダンでたくさんのサソリに私は出会ったのであり、実験によって古代の著作家の言っていることを立証したことでこの考えを思いついたということでもないのです」。ピヴォー氏はそれを経験することになったわけだが、するとこちらも、彼に従って、プリニウス(あるいはアウルス・ゲッリウス)が正しいと考えることになるだろう。サソリの自殺は寓話ではないのだ。

 

記事はこの先、ほとんどピヴォーの手紙の引用なのでその内容をかいつまんで説明すると、科学について見識の深い宣教師仲間からサソリが尾を自らに刺す話を聞かされて、初めは疑ったものの、信頼している人からの話なのでここはひとつ自分の目で確かめたいということで実験をしたそうだ。その実験の概要は次のようなものだった。

他の同業者の捕まえてきた若い無傷のサソリをそれが十分に運動できるほどの大きさで、燃えている炭によって形作られた円の中に入れる。サソリは最初、円の一方へ行き燃えているとわかると反対側にとって返してまた、来た道を通って円の中心に向かった。追い詰められていったサソリは、とうとう唐突に尾を伸ばして自分のうなじに一撃を加えると、弛緩して動かなくなったという。

燃える火の輪の中に投じるという寓話(神話)の再演をするための実験方法の不備など追及すべきところはあるものの、議論をこの記事がどのように受け取られたかに絞ってみよう。

1ヶ月後の11月に発行された『自然』1956号に再び「サソリは自殺するのか?」と題された記事で反響の様子がうかがえる。

記者のドルソは同じような事実を報告している記事の引用を載せた手紙やピヴォーと似たような体験談を書いている手紙をぜんぶで4つ紹介している。

まず、1843年に著された『健康と病気の博物学』と、F・ド・テサンの『アルプスの世界』に同じようなことが書かれているというもの。次に、1727年にフランス語に訳されたジョバンニ・フランチェスコ・ジェメリ・カレリ『世界周遊』5巻の日本での体験談で大量のアリに囲まれたサソリが似たような死に方をした話があることを知らせるもの。3つ目が、父が同じ体験談を語ってくれたという回想。最後は自分がアフリカ出兵した時に野営地のサソリを殺すために火を放ったところ同じような行動をサソリがしていて、それを思い出したというもの。これらの4つにあるサソリの死に方は奇妙なほど類似しているうえ、時代や場所が異なっている。つまり、サソリの自殺は普遍的に観察される現象だったのだ。

こうしてサソリは自殺するとのは正しいと結論づけようとするが、ドルソは「ただし」(seulement)とだけ記して段を変える。

そこで満を持して紹介されるのが当時すでに著名だったジャン・アンリ・ファーブルからの手紙だった。ファーブルもまた『自然』の読者だったようでこの記事に関心を示して手紙を寄越してきたという。ファーブルは同じような状況を作ってサソリで実験してみたところ、成功したという。ところが、他の論者と違ってそれだからこそサソリは自殺したのではないと意外な結論を導く。なぜかというと、サソリはその後しばらくして復活したからだ。つまり、自殺に見えた行動は単なる擬死行動だったというのだ。また、ドルソもファーブルの『昆虫記』(直訳では『昆虫学回想録』)7巻にその手紙にあったような擬死行動についての記事を引用している。そこでファーブルは「人間を除いて、どんな生き物も自らの終わりという最終手段を知りはしない、なぜならば死を知らないからだ」と述べる。

ここまでドルソは前の4つの手紙とほとんど同じ長さだけの分量を割いてファーブルを紹介している。読者としてはここで当然、19世紀の大衆科学作家ファーブル(その学説の危うさはここではいったんおくとして)による裁定が迷蒙たるサソリ自殺論争に決着をつけると予想するが、ドルソは思わぬ一手に出る。

ファーブルの実験が少なくとも先例と同様に説得力があり、おそらく誰も彼が正しいと言うのにためらいはしないだろう。ただ、私の番には、「ただし」といって留保したい。サソリが自殺しないのであれば、サソリは尾で自分を打つこともないのではないか。優れた観察者と思われる人々がサソリが自らを攻撃したと断言したにも関わらず、そしてサソリが攻撃した方法を注意深く描写しているにも関わらず、どうしてそう主張するのだろうか。これほどまでにそれらを動揺させるには十分な先入見を信じるべきなのだろうか。あるいは、時には、サソリは実際に自殺すると認めるべきなのだろうか。私がその質問に答える責任を持ちはしないと思われるだろう。しかし、ファーブル氏はこの記事を読むだろうし、同時に彼は雑誌を受け取るだろうし、困惑から私たちを引きずり出してほしいと彼に要求する手紙を『自然』から受け取るだろう。私は近日その返事を公にしたいと考えている。

ドルソはなんとファーブルの擬死行動説に納得しないのである。ただし、それが実験手順や仮説の立て方といった批判ではなくて、もしも擬死行動であるとしても、わざわざ自分を尾で刺す必要はないのではないか、というように、いかにしてそれを自殺とみなすかといった方に議論の中心を移すのである。

ドルソは人間以外のいかなる生き物も死を知らないので自殺もできないというファーブルのテーゼを引用するが、それを批判することなく、それが明らかに自殺にしか見えないという点に固執しているように見える。

そこで『自然』の他の記事に目を向けてみると、この雑誌では定期的に人間以外の生き物にも人間的な行動が見られるという記事が載っていることがわかる。例えば、1904年にはE・アンリオによって「音楽好きの動物」という記事が執筆されており、そこではクモが音楽を聴いているのではないかという奇妙な話が載せられる。

もちろん『自然』が大衆向けの雑誌だったからといってこのようなあまり科学的とは言えない記事ばかり載っていたわけではない。あくまでも興味関心を引くために載せられていたと考えるのが妥当だろう(実際、「サソリは自殺するのか?」の前の記事にはコンクリート管を製産する工場の紹介記事が載っていることからも、決してこの手の記事ばかりではなかったのは一目瞭然だ)。しかし、少なくともこの手の記事が定期的に載るほどにはこの手の話題が注目を集めていたのだろう。

現在でもその事情は変わらない。イルカの超音波による通信を「会話」とみなすかどうかや、ゴリラに手話でWhere do gorillas go when they die?と尋ねて Comfortable hole byeと返ってくると、想像をたくましくするわけだ。ここで質問が誘導的に過ぎるとか、概念をいかに操作しているか検証するには不適切なやりとりのなかでの一節にすぎないとか、そもそも質問の意味を十分に理解することは一体どうやって知りえるのかと言ってはいけないのだ。

私たちはどれほど進んだ科学技術を前にしても、サソリ自殺論争の渦中に居続けている。優れていると評価している科学者から諭されても頑として受け付けず、文学的とも言えるような自らの事実を手放さない。

ところで、私の興味はそこにはない。というより、ファーブルがこういった形でしか言及されることがないほど(あるいは20世紀に入ってファーブルはほとんど言及されなくなっていくのかわからないが)、『自然』は独自に優秀な学者を抱えていた。生物学者のアンリ・クパンだ。4版を重ねた『奇妙な動物たち』で知られるこの学者は『自然』で出された追悼記事で人々に生物学や植物学の知識を伝える才能があったと──本ではファーブル的比喩が散見される──評価されている。先に触れた問題点にも「動物における神経的な危機」という当時の神経学と生物学の距離も測れるような貴重な記事も残している。そのうち、アンリ・クパンについても調査してみたい。

『自然』は大衆科学雑誌と多くの本に紹介されその記事の一節が触れられるわりには、一体そこにはどんな記事が載っていてどんな記者がいたのかほとんど知られていない。今回示した記事は『自然』という黄沙のほんの一粒にすぎない。

最後に、サソリ自殺論争のその後を記してこのエントリを終わりたい。近日と予告されたファーブルからの返信は結局公開されることはなかった。ファーブルが返事を出さなかったのか、それとも返事をしていたものの公開を拒否したのかはわからない。事実として確認できるのは彼が死んだのはサソリ自殺論争が始まった5年後の同じ10月だったということだ。その頃、19世紀科学が導いた最初の戦争である第1次世界大戦はその戦局の雲行きを怪しくしていた。

*1:こんなたとえばなしがある。「一般的な傾向としては、全体としてとりうる微視的状態が多いほど、秩序ある巨視的状態は、無秩序な巨視的状態に比べて起こる確率が低くなる。部屋中の空気分子すべてが天井から3インチ以内に移動するということがあり得ないのは、部屋には10の25乗個もの空気分子があり、そうした分子すべてが天井付近にある微視的状態の数は、分子が部屋全体に広がっている微視的状態の数と比べれば、非常に少ないからだ(部屋の住人は一安心だ)。」(J・D・スタイン『不可能、不確定、不完全』、p.334)