JULIA DECK. Viviane Élisabeth Fauvilleについて
ミニュイと言えば肩をすくめる人もいるかもしれない。そんな出版社だ。前衛でちょっとお高く止まってもいる気がする、そんな文学ばかり出しているところ。実際、クロード・シモン、マルグリット・デュラス、ロブ=グリエ、ベケットなどを抱えていた編集者ジェローム・ランドンから続く出版社の歴史を踏まえればそう思うのは当然のことだ。今でもローラン・モヴィニエLaurent Mauvignierなんてシモン系譜の人だって居る。そんな彼はCe que j'appelle oubliという題名の本を書いている。ビール缶を売り場でそのまま飲んでしまい捕まった死刑囚(!?)に処刑執行役が「そんなささいなことで人は死ぬべきじゃない」と言う(そりゃそーだ)ところから始まり、句点を一度も打たずに本一冊が成り立っている。これは読んでいてツッコミどころも多いので割とギャクとして読める。
そう、モヴィニエみたいに前衛に頭から突っ込んでいる作品が意外に面白く読めるように、今回紹介するジュリア・デックJULIA DECKの『ヴィヴィアン・エリザベート・フォヴィーユ』(以下、VEF)(Viviane Élisabeth Fauville, 2012)も心理サスペンスとして面白く読める。二人を比べるっていうことはデックもかなり癖があるわけだが、その癖というのは「二人称」小説の側面を持っているということだ。ただし、ただの二人称じゃない。あくまで側面を持っているに過ぎない。この小説は二人称から始まって、物語が進むにつれて全ての人称を巧みに使いこなすことで章を変えていくのだ。そんな前衛臭いけどとても面白い作品について今回は紹介したい。
二人称小説の歴史
まずは簡単に二人称小説ってものの歴史を振り返ってみたい。VEFは歴史的にどの辺にあるんだろうか。それは珍しいのか、珍しくないのか。
一つ目の疑問から答えよう。VEFは歴史的に見て、新しくはない。一世紀弱はもうやってる。というわけで二つ目の疑問も自ずと答えられる、そう、全く珍しくない。
そもそも二人称小説は「内的独白」というジョイスとかで有名な方法(ジョイスはデュジャルダンから学んだわけだけど)から発展してきた。VEFはフランス語の小説なわけだから、フランス国内に限って話をしていくと、ジョイスの翻訳に精力的に関わった20世紀初頭の文学者ヴァレリー・ラルボーが「内的独白」を受けて二人称小説めいたものを残している。『秘めやかな心の声』(Mon plus secret conseil…, 1923)がそれだ。また、戦後すぐに『心変わり』(La modification, 1957)を書いたミシェル・ビュトールは「その作中人物そのひとの下部にある内的独白、一人称と三人称の中間の形式にある内的独白が、わたしに必要だった」(『フィガロ・リテレール』紙(1957年12月7日))と言っている。つまり、大雑把に言ってしまえば(まぁこれはVEFの紹介なわけだし、文学的な詳しい検討はまた今度)、ここまでは二人称小説というのは内的独白と関わったものだったと言える。しかし、80年代に入ると、デュラスが『死の病い』(La maladie de la mort, 1982)を書く。この筋もほとんどない、男と金で関係を持つことになる女(娼婦ではない)の意味深長なことばかり言ってかえって要領をえない小説についてブランショはこう言っている。
命令的であるという以上のものであり、ひとを呼びとどめ、呼びとめられて逃れえぬ運命の罠に陥った者にこれから起こるあるいは起こるかもしれないことを決定するのである。(『明かしえぬ共同体』ちくま学芸文庫、1997年、74頁)
何を言っているかをこの文章だけで理解することを求めるわけじゃなくて、こういう結論が引き出される過程でデュラスの二人称が「内的独白」とどう関わっているか論じられていないことを強調したい。*1デュラスの書いた二人称は内的独白の探求過程で出て来たものじゃないというわけだ。ここで気をつけてほしいのは、二人称小説の始まりには内的独白の探求があったからといって二人称で書くことは内的独白の探求にすぎないものとして回収してはいけないことだ。それは一人称で語ることをただ一つの意味に還元しないのと同じだ。そもそもデュラスの『死の病い』は作者本人がこれが上演できるものだってことで注釈をつけてもいるので僕の見方はかなり恣意的なものにすぎない。でもまぁ、とりあえず今は許してほしい。
というわけでまとめると、二人称小説っていうのはラルボーが20世紀初頭に内的独白の探求からそれっぽくして、真ん中くらいでビュトールが完成度を上げてきて、後半にデュラスがあんま関係ない感じでできたよってことになる。
VEFの簡単な紹介
歴史を見たところで、一番最近出た二人称小説で面白いやつ、VEFの紹介を始めたい。これは内的独白の方に近い小説だ。といってもラルボーはまぁ完成度の問題があるから措くとして、やはりビュトールとはその特徴が大きく異なる。それはまた後で触れる。まずは本の紹介をしたい。
VEFはエピグラフにベケット『名づけえぬもの』(L'Innommable, 1953)を引いている(どうでもいいけど、pdfでネットに転がってる)。
Je suis, depuis que je suis, ici, mes apparitions ailleurs ayant été assurées par des tiers.(私であることは、私であって以来ずっと第三者によって保証されてきた。)
うーむって感じの一節だが、物語の始まりは二人称なのでこの「第三者」が語り手かもしれないって気にさせられるとてもうまいエピグラフだ。
あなたは10月15日に引っ越して、ベビーシッターを見つけて、健康上の理由ということにして出産休暇を延長し、11月16日月曜日、昨日のことだが、あなたはかかりつけの精神科医を殺した。あなたは象徴的に殺したのではない。時々言及されるような父殺しというわけではない。ツウィン・プロテクション・シリーズ三徳モデルのヘンケルス・ツヴィリンク印のナイフであなたは殺したのだ。(Deck(2012), p.16)
分析
VEFでは全ての人称が使われている。それぞれの人称が何を意味するかは難しい問題なのでここでは触れない。ただ、三人称描写の尋問のシーンで二人称が頻繁に使用されるなど工夫は細部に施されている。
細部の工夫と言えば、リアリティのある描写にもそれが見られる。物語の舞台のパリの描写は全て実際に存在するのでグーグルのストリートビューで確認することもできる。本人もパリでロケハンをして、メトロに実際に乗って主人公の行動を追うための綿密なスケジュールを立てたと言う。先ほど二人称小説の簡単な歴史を見れば解るように、明らかに「内的独白」の系列に属しているからビュトールの対物描写と比べてたくなるが、VEFではほとんど情景描写や行動の描写のみで物語が進んでいく。具体的に言うと、VEFでは使っている物や読んでいる雑誌はその外見が詳しく語られるのではなくて具体名が挙げられて説明されるだけだ。あるいは道路にいる人が描写される時、対物描写というよりはその人物の持っている物や格好を直接的に表現しない程度に語られる。また、ビュトールとも、そしてデュラスとも違うのは全体的に筋がきちんとあることだ。『心変わり』は汽車に乗った男が浮気相手との愛に冷めて妻の元に帰るのを決める汽車での数十時間を描いたものだし、『死の病い』にいたっては「男しゃべる、女しゃべる、男しゃべる」みたいな感じで筋も何もない。一方でVEFそれぞれの人間にそれぞれの愛憎があり、それらが全て交錯する。例えば精神科医の死に影響されて突き動かされた女どうしの言い合いなどあり、下手な昼ドラより面白い。50代寡婦と20代女子大生の口喧嘩をフランス語で勉強したい人はぜひ読むべきだ。
終わりに
(Julia Deck http:// http://www.afp.com/fr/node/679364/より)
(追記)
どうやら、VEFの尋問シーンはデュラス『ヴォルヌの犯罪(L'Amante Anglaise)』(田中倫郎訳、河出文庫、1995年)とも関わりがあるかも、との指摘を受けた。もしもその関係性を立証されれば、二人称小説とは関係なくデュラスとデックの比較が必要となってくる。