南礀中題

いろいろです。基本的にアフィリエイトが多いのでご注意を。

【書評】大野英士『オカルティズム』(講談社選書メチエ,2018年)

大野英士は2010年に刊行されたユイスマンス論で仏文界隈に衝撃を与えた,と私は勝手に考えている.少なくとも,私の指導教員は絶賛している.それが大野英士『ユイスマンスとオカルティズム』(新評論,2010年)だ.

本書は,ユイスマンスのフランスにおける研究史を丁寧に追い,デカダンス文学の旗手となっていたユイスマンスがどうしてカトリックに転向することになったのかを,19世紀「マリア派異端」の領袖の一人ジョゼフ=アントワーヌ・ブーランとの関係を軸に,綿密な作品読解と作家交流から,鮮やかにオカルティズム的ユイスマンス文学を再構成した点にある.ユイスマンスや19世紀デカダンスとオカルティズムは,澁澤龍彦種村季弘といった人々によって導入された80年代によりもフランスでも非常に文化史的研究が進んでおり,本書はそうした空隙を大きく埋める点でも優れた研究だった.

また,上梓された当時はフェミニズム論でも世界的にみてあまり使われなくなっていたジュリア・クリステヴァの文学理論を,彼の指導教員であったというこもあり,その議論の中心に取り入れていた点も個人的には驚きがあった.クリステヴァはその独自の数学解釈によって構築されたポストモダン的理論家として受けるべき批判をしかるべく受けたものの —— 『知の欺瞞』周辺のことであり,私自身も彼女の数学的知識の応用は端的に間違っていると考えているので,一部の研究に関しては見直しが必要だと思う —— ,精神分析の文学解釈の応用には一定の文学理論的成果があり,大野の研究でも「おぞましきもの」の概念形成では,その成果が遺憾無く発揮されている.私個人は,精神分析による文学読解から撤退していくつもりだが,精神分析ならびにその応用の文化史的意義を否定するつもりもないので,こうした素晴らしい作品解釈を読むことができるのは僥倖であった.日本ではクリステヴァはまともに読まれなくなってしまっている.彼女の活動の全体を明らかにする研究が日本語で紹介されていない現在,この本によってその優れた理論の応用例を知るのも良いだろう.

この度上梓された本書は大野によるユイスマンス研究のごく一部が引き継がれているがかなり部分でバージョンアップされているのでその労作ぶりが感じられ,素晴らしい著作であった.

大野英士『オカルティズム 非理性のヨーロッパ』,講談社選書メチエ(690),講談社,2018年.

太陽王ルイ14世の時代.それは他のヨーロッパの政治体制のほとんどがそうであったように,絶対王政と,宮廷の陰謀の時代だった.その絶大な王権の影で起きたある殺人事件は,その時代の人々の文化によって規定された行動の結果だった.著者が最初に言及するのは,そうした殺人事件だった.ブランヴィリエ侯爵夫人マリー=マドレーヌと彼女の情夫サン=クロワによる親族殺害によって遺産相続を狙うという比較的平凡なこの殺人事件が,実は,錬金術と薬術という17世紀にもっとも流行った詐欺に手を染めたサン=クロワであった,というように,事件の背後にはオカルティズムが蠢いていた.他にも,17世紀で宮廷の内部で起きた数々の殺人事件には黒ミサや占い師といった人々の存在が大きな影を落としており,王権の崩壊と民主制による統治というフランスから始まり,ある時期まで誰も疑うことのなかった近代合理主義精神の光のうちにも,つねに影があった.その影こそ,オカルティズムだ.

オカルティズムの文化はいまも生きている.嘘だと思った人は,もしも新宿にある紀伊國屋本店に行く機会があれば,3階にある精神世界コーナーを正面に見て右側にある棚にある書籍の名前を見るといい.それらが何かを知るために,本書は格好の案内書となっている.書籍だけでなく,ゲームといった娯楽作品でもオカルティズムは生きている.バージョンアップでタイトルまで変わってしまったホラーゲームの怪作The Conjuring HouseことThe Dark Occult(Rym Games, 2018)はそのタイトル変更によって自らがオカルティズムの末裔であることを表明することになった.極限まで地理把握能力を試す本作の主題は黒ミサの呪いだ.また,回転テーブルによる対話,悪魔の召喚,呪いの人形,フードをかぶった謎の集団などオカルト要素満載だ.極度にマップ構築能力を要求するゲームシステムもいたずらに複雑化するオカルト儀式的なものの形式を反復しているようで,ストーリーはともかく非常に優れたホラーゲームだった.以上のように,現在でもオカルティズムを主題にした娯楽作品はごく一般的に作られ,消費されている.

また,神秘思想や新興宗教の研究からいっても本書の登場は有意義なものといえよう.本書で紹介されているオカルティズム思想家たちは少なくともフランス文学研究では作家の同時代思想としてオカルティズムの知識を得ている必要があるものの,そうした特定の研究領域以外ではなかなか注目されていなかった.一方で,日本では新興宗教ニューエイジ思想についての研究はかねてから盛んであるものの,こうしたオカルティズムの研究自体のここ20年ほどの研究の紹介はほとんどない.この点で私にとって最も重要だったのは,ベルトラン・メウストの研究(Bertrand Méheust, Somnambulisme et médiumnité, tome. 1. ,Le défi du magnétisme, tome. 2. , Le choc des Sciences psychiques, Institut Santélabo, Coll. « Les Empêcheurs de Penser en Rond », 1999.)がいよいよ本格的に紹介されている点だ.これまでもメスメリスムに言及のある文学研究などでもほぼ間違いなく参照されていたこの本が日本でこれほど丁寧に紹介されているのはおそらく初めてだろう.メスメリスムから心霊科学までの研究水準は現在に至るまでおそらくメウストによって成立していることを鑑みると,本書によるメウスト研究の紹介は非常に大きい.私もフランス語のこの著作を読み通したことはなかったので大まかにでも研究の全貌を知る機会となり,大変助かった.

また,本書にはもう一つ特筆すべき点があり,それは19世紀フランス末の反ユダヤ主義と右派オカルティストによる聖母マリア信仰の結びつきによって生まれた陰謀論についての考えだ.現在でも奇妙な影響力を持つユダヤ人世界征服陰謀論の淵源と言える,レオ・タクシルの反フリーメイソン・キャンペーン,そしてその捏造されたキャンペーンが地続きにホロコーストまで続いている点を示している点は各社会で運動を盛り上げていったアクターたちの思想的背景を明らかにしながら,別の研究(者)によってさらに発展させられるべきであり,現代日本社会においても絶対になされなければならない研究と言える.

その他細かな点を見ていくと,グノーシスとその派生,エリファス・レヴィアレイスター・クロウリーブラヴァツキー夫人などのオカルティズム思想家・運動家たちについても,先行研究と合わせて言及され,ときには文献学的批判に耐えられるかどうかいったような文学・文献学研究の姿勢を忘れていないのは類書(学術研究はのぞく)にはない特徴と言っていいだろう.さらに,紹介されているオカルティストたちの教義や主題について簡潔に箇条書きしている点も参考書として活用できる.今後,日本において神秘主義やオカルティズムに言及する際には必ずこの本に目を通したうえで,そこで挙げられている参考文献を読むようにすべきだろう.ついでにフランス語の参考文献を読むためにフランス語履修者が増えてくれると,業界が助かるのでぜひ参考文献を読むためにフランス語を学習してほしい(唐突なお願い).

しかし,本書にはいくつかの点について批判すべきだと私が考える点もある.以下ではそれについて見ていこう.

オカルティズムには人生の意味や死後の世界といった類の問いについて明快な答えを与えるため多くの人々を引きつけてきたという側面があり,それは本書の主題の1つとなっている.ところで,現代においても科学はそうした問いに答えてはくれないと著者は指摘し,次のように述べている.

しかし,十九世紀から二十世紀初頭の一時期,オカルティズムは偏奇な興味に駆られたごく少数の科学者が人知れず取り組むというマイナーな研究対象ではなく,キュリー夫妻をはじめ,ノーベル賞を受賞したクラスの一流の学者たちが真剣に取り組むメジャーな研究対象だったのだ.(『オカルティズム』,24頁.)

こうした考え方には問題がある.まず,オカルティズム的研究対象(超心理学,霊の実在,なんでもよいが)が当時の人々にとって関心を寄せたのは,新しい光線の発見と同時期であるという広く知られている事実を閑却してしまっている点だ.その光線の代表的なものにX線がある.X線を当てて写真を撮影すると透過率の差から人体の内部を透視したような図像を得られる.これが,当時の人々の視覚的体験の定義を再考させ,見えるものと見えないものの境界の再定義を促した.こうしたことは心霊写真研究では一般的に知られているし,同じ頃に流行した四次元表象について体系的な仕事を行なったLinda Dalrymple Hendersonがその主著のイントロダクションで関連事項で言及しているように,芸術研究においても科学と心霊科学の交差が非常に限定的だったのは基本的な認識だ.次の問題として,そもそもこの本では科学史についてほとんど言及がない.科学とオカルティズムは確かに近代において対立しているので言及するのは当然だが,あまりにも科学史を閑却しすぎているきらいがある.例えば,当時の科学水準と現在の科学水準は全く異なる.計測・観測技術の発展によって生理メカニズムから宇宙物理学まで,そもそもシステムの理解そのもの仕方が変わっているし,研究の背景にある研究所運営のあり方や研究者のアイデンティティ,研究対象の性質も大きく異なっている.それを無視して1世紀前の科学者のオカルティズムへの関心と現在の科学におけるオカルティズムの排除を比べるのは無理があるのだ.他にも本書には類似した問題点もあった.以下に示す.

一方で,現在,電磁波を利用したさまざまな電子機器の発達により,テレパシーを使わずとも,遠距離,場合によっては地球の裏側まで,自己の意思を伝え,他人の音声を聞き取ることが可能になった.脳波を外部の機械によって検知することは医学の領域においては当たり前のこととなり,近い将来には,脳波を外部機器と連動させることにより,自分が何かを心に思い浮かべただけで,さまざまな電子機器や家電,移動機械に指示を出すことも可能になるだろう.そういう意味において,人間が「超常現象」に期待しなければならない領域はますます減ってきているともいえるし,逆に,たまさか,脳波の発信程度が大きく,通常の人に優って,周囲の環境に働きかける程度の大きな「異能」を持った人間が,検出されるかもしれない.(『オカルティズム』,242)

まず,こうした一文は脳波計測について誤解を与える可能性がある.「脳波の発信程度が大きく」といった一文はとくに問題があるだろう.おそらく著者としてはfMRIやNIRSのような非侵襲的な出力型BMIを想定していると思われるが,これは脳に直接触れることなく,頭部に設置した脳磁計によって計測された微弱な磁気信号を暗号として,それを解読することで磁気信号がどのような運動を意味しているのかを解釈する.言うは易しでこうした方法で取得されるデータは膨大なノイズの山である.このノイズを取り除くために統計処理を用いて,その中から統計的な有意な信号を取り出す.たとえそれが侵襲的なBMIだったとしても,そうした問題がなくなることはない.数十年の研究成果から,特定の周波数域のもつ脳波が多数知られている.よって,よりはっきりとしたパターンを示す波形がありえるとしても,それは「脳波」なるものの「程度」の「大きさ」とは関係がないし,むしろ研究発表に値する新しい特定周波数域の脳波となるだろう.万が一著者の想像するような機器が作られたとしても,そうした統計処理がバックエンドにて実行されるに過ぎない.そのため,「異能」を持った人間が現れても,まったく他の人と同じようにしか周囲には影響しないし,むしろ誤作動を防止するために,受信することのできる脳波を発せない場合,その機械はおそらく動くこともないだろう.この点については,以下のような記述もあった.

超常現象そのものの「実在性」について,それがあるとも,ないとも,筆者の能力の範囲では確定できない.人間の身体から出る微弱な電気信号に反応してパソコンやスマホのパネルが反応する時代なのだ.たまたま個体差で他の人間よりも強い電気を発信することのできる人間がいないとも限らないではないか.(『オカルティズム』,279)

私はそもそも,超常現象には否定的だ.個人的には量子力学ブラックホール研究,数理論の成果に触れた時に感じる,観測可能なこの世界や単なる数の振る舞いが思いがけない複雑さと他の公理との予想外の関連を生み出す数学の世界がすでに超常的ですらあると言えるのに,超能力や心霊の科学的な実在に議論を割く必要性も感じない.それは現代において科学の対象ではないし,科学で扱う必要もない(そんなものに予算を使うなら頼むからあらゆる科学の基礎研究に時間とお金を使って欲しい).

私個人の意見はおくとしても,先に指摘したように「個体差で他の人間よりも強い電気を発信することのできる人間」がいたとしても,工学的な安全性の観点からいって,おそらく機械が止まるか,作動しないだけだろう.同じ程度の入力に調整された結果として常に同じ程度の出力がなされなければ,どんな危険性があるのか想像もできない.現代においてもなお航空機パイロットに一連の手順を守らせるのは,異なった入力を避けることで異なった出力を避けるためだ.それ以外にも様々な場面でそうした工学的な安全性(それこそスマホのタッチパネルにいたるまで)は頑健に保たれている.引用箇所の想像はあまりにもメスメリスムに引きずられているとも言えよう.また,引用したような世界が本当に来るとしても,それはおそらく私たちの想像とは異なった形によるだろう.

以上のように,大野による科学とオカルティズムの関係についての言及は科学知識やその理解に関して大きな問題があると言える.一方で,オカルティズムの側から描かれた科学とオカルティズムの接近についてまとまった記述がなされており,本書の利点の1つと言える.なお,私自身の説明にも間違いがあるだろうから,もしも問題があると思った方は@penguinmeditateまでご一報いただければ幸いです.

次に,新自由主義のカウンターとしてのサブカルチャーにおけるオカルティズムという仮説が提示される最終章についていくつか指摘しておきたい点がある.まず,以下に本書の結びを引く.

世界の歴史を書き換えんとする現代の魔法少女や,ゴスロリという鎧に身を包んだ少女たち,オカルト・魔術を追い求めるオタクたち,自らの身体を自傷することで自らの実存の意味を追い求めようとする永遠の中二病患者たち.彼ら,彼女らこそが薔薇十字友愛団よろしく,新自由主義ディストピアの一瞬にしてユートピアに変じることを夢見る現代の魔女,魔導師かもしれない.いやそれどころか,彼ら,彼女らこそが,世を統べる「現前」の形而上学を「揺らぎ」のうちに解消すべく「来るべき蜂起」を企む邪眼を帯びたテロリストかもしれないのだ.(『オカルティズム』,285頁.)

「世界の歴史を書き換えんとする現代の魔法少女」とは,『魔法少女まどか☆マギカ』のことだが,同作品への言及には不正確さが目立っていた.まず,キュゥべえについて「新自由主義の論理「貸したものは返せ!」を地で行く闇金さながらの「悪魔の契約」だ」(『オカルティズム』,284頁.)とあるものの,こうした負債と返済の義務が生命そのものを脅かすことについてはとくに新自由主義というイデオロギーに特別なものではないことは先ごろ流行したグレーバー『負債論』でまとめられている先行研究でも示されているので,そうした研究をサーベイしていると考えられる以上は,こういった論調にするのは議論を単純化しすぎているように思われる.次に,『魔法少女まどか☆マギカ』の語彙には誤植が目立っている.「キューベイ」ではなくて「キュゥべえ」と表記すべきだし,「主人公マギカの友人暁美ほむら」も「主人公鹿目まどかの友人暁美ほむら」だ(『オカルティズム』,284頁).「マギカ」と「まどか」とで表記揺れしている箇所もある(『オカルティズム』,284-285頁).また,作品のあらすじも少し違っている.あたかもほむらがまどかの救済と魔法少女たちの救済をしたような内容になっているが,どちらかというと,まどかのイエスのような自己犠牲(自らを差し出すことで他の犠牲者の犠牲をなかったことにする)による人類の救済の物語である.

なお,関連する作品として『STEINS;GATE』も『涼宮ハルヒ エンドレスエイト』という一連のループものの作品が挙げられていたが,科学とオカルト,そしてオタクといえば『とある魔術の禁書目録』をぜひとも挙げておきたい.秘術で生き長らえたアレイスター・クロウリーが超能力の科学研究を行う研究施設のトップを務めているという設定自体のもつ近代的なオカルティズムのあり方は,無視できない娯楽作品と言える.そのキャッチコピーは「科学と魔術が交差するとき,物語は始まる —— 」だった.まさに「19世紀性」そのものだろう.しかし,その著作の長大さ,10数巻を読み続けてようやく読みやすい文体になるという試練,指数関数的に増大する登場人物たちの存在がこの作品の分析を妨げている.また,独自の国際政治力学のモデルを提示する旧約後半の展開以降,この作品はほとんどオカルティズムの用語を換骨奪胎しているだけの側面もあり,オカルティズムそのものとは無縁のものとなりつつある(あるいは,無縁である).

再び引用箇所に戻る.左派ユートピアとオカルティズムの関係を大野は第4章で論じているので,現代のサブカルチャー作品に注目し「新自由主義ディストピアの一瞬にしてユートピアに変じることを夢見る」思想的背景を見るのは本書を通底するテーマとなっている.しかし,一方で取り上げられているのはいわゆるループものの作品で,『魔法少女まどか☆マギカ』も地球外生命体の干渉という観点でいえば,『STEINS;GATE』も『涼宮ハルヒ エンドレスエイト』もいずれもSFだった.まず,ユートピアとSFならジェイムソンの『未来の考古学』で提示された「ユートピアのジャンルのもっとも深速な使命とは, 私たちが〈ユートピア〉そのものの想像を構造的にできなくなっていることを,局所的かつ明確に,豊富な[sic]具体的な詳細とともに理解させることである」(『未来の考古学 下』,作品社,2012年,95頁.)というユートピアの不可能性こそユートピアが現実の社会に対する批判として成り立っている立場が思い出され,これは大野と共通していると考えられる.しかし,ジェイムソンのSF論では「世界の縮減」モデルが提示されていた.ル=グウィンの傑作の1つである『闇の左手』の作品読解の中で提示されたこのモデルは,ル=グウィンが書き込んでいる両性具有の人間たちの文化形成などの人類学的記述の豊穣さの中で見落とされているある単純化の操作こそ重要であるという指摘である.『闇の左手』の場合,それは両性具有の人間たちの文化によって現実社会で生じるセクシャリティジェンダーの問題が解決されてしまっている,と考えられる.つまり,現実の社会問題としてそれを解決する方法ではなくて,そうした複雑な世界を「縮減」したモデルを分析することで何からの解決を与えてしまう方法だ.これは近年ワイスバーグのようなシュミレーションの科学哲学のモデル論などを引き合いに出しても非常に興味深い考えだ.ループものの作品はまさにループによって解決を可能にする「世界の縮減」を行なっているし,ループものでありながら歴史を改変できないというループものもいくらでも見出すことができる.そうした様々なループものの作品は,ループ可能な理由を事細かに説明するユートピア的世界を示している(時にそれはゲーム的リアリズムとも呼ばれる).しかし,それだけでは,オカルティズムとユートピア論が接近する理由を明確に語っているようには思われない.むしろ,こうしたループものやゲーム的リアリズムがオカルティズムを背景にしている可能性が示せれば新しい研究領域が形成されることも十分に考えられるだろう.

以上,批判的に本書の一部の議論を取り上げたが,根本的な欠陥なしに多様な批判を生み出す本は良書の中の良書である.私が批判している点のうち後半は将来的にほかの人々によってなされるべきだろうし,著者の研究テーマからいっても,次回の著作はオカルティズム・フランス文学史が期待される.まさにこうした展望を開く本書の尽きせぬ魅力を味わうためにも一読は必須である.

『現代思想』2019年1月号の千葉・小泉・仲山鼎談を読んで

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まだ学部生だった時分に,ひふみさんに話をもちかけて同人誌にインタビュー(というか対談記事.「中華鍋で言葉を焼く」『Mare』,第1号,2015年.)を載せさせてもらったのは,『現代思想』2015年6月号の「研究手帖」に「そこにある相関主義」というエッセイをひふみさんが寄稿していたのがきっかけだった.2010年代以降に同人誌や批評活動で目立った活動をしていたうちのひとりだったひふみさんと何で知り合ったかはもうよく覚えていないのだけれど,今回はいよいよ鼎談記事が載せられていたので感慨もひとしおだった.内容はというと,この3人ならまぁこういう話になるだろうな,という話の意図もよくわかる話であり,私にしても日頃からそう考えていたことだったので,そういう意味では斬新な事柄はなかったのだが,こうした内容をしゃべる程度のことがアカデミズムにおいて明確にある立場をとってしまう,というメタメッセージそのものに,身につまされるものがあった.とはいえ,久しぶりに面白い鼎談を読むことができたのは新年に向けての良い露払いとなった.小泉さんのある種のあっけらかんとした科学主義の表明や,意味のない無意味を儀礼において再考し,精神分析もある程度担保する千葉さん,ブラシエへの共感と未来において心はどうなっているのかをホラー的経験論によって基礎付けていくひふみさん,という三者の掛け合いはなかなか見応えのあるものだった.私も,いくつか気になってしまったところがあるので,とくに整理しないで書いていく.

フィッシャーとヴィールの自殺とミシェル・ウエルベック

冒頭のほうで終末論サブカルチャーの文脈から出てきたSRの話がなされ,矢継ぎ早に本質主義回帰の保守派の科学主義からの帰結としての分離主義,そしてハーシュマンのExitへと快刀乱麻を断つくだりには感心した.ただし,そのあとでポスドク問題にフィッシャーとヴィールの自殺が回収されているだけなのには,少し議論をしたくなった.

というのも,終末論的美学とExitが交わるところにはロマン化された自殺と単なる自殺があるからだ.ロマン化された自殺とは,ロマン主義以降の典型となっている自殺行為のことを指している.単なる自殺は,たとえば薬物乱用による判断力低下や,生まれつきセロトニン分泌がうまくできないために,社会的圧力に直接的な影響を受けやすくなり自死に至るといった様々な器質的要因のことを言っている(それゆえ,単なる自殺のほうには,他の障害と同じように,社会的福祉やケアを援用すべきという立場を私はとっている.私自身で言えば,自殺せずに今日まで生きているのは,単に器質的な要因だと思っている).他にきちんとした術語があるだろうが(というか,ロマン化された自殺といっているものも,私が文学研究者だからそういうものがあると思っているだけで,本当は存在しないのかもしれない),本題でないのでそれは措く.私がここで言いたいのは,リアルなニヒリズムやリアルな終末,あるいはここからの本当のイグジットとは,どこか別の場所にいくことでなく,生の切断であり,脱出である.つまり,2つのうちのどちらかの意味での自殺である.

私がこうした自殺をめぐる終末論的課題にこだわるのは,ミシェル・ウエルベックが最初の頃にやっていた長編はすべてこのことについて描いているからだと考えているからだ.近代化された黙示録的世界観である終末論は,資本主義やユートピア思想史などから理解することができるが,ウエルベックは世界を滅ぼすほうではなくて自己を滅ぼしながら世界を滅ぼす世界を描くことによって,世界像を描く終末論に異なるアプローチを与えたと言える.ダーク・エンライメント一派が敬愛しているらしい『闘争領域の拡大』は,「闘争領域」という資本主義的帰結としての「非モテ」という終末論を描き出す主人公に「人生の目的は達せられなかった」と通告することで実は自己の滅亡の話であったことを示す物語であり(つまり,ラファエルが単なる道具になってしまっているあらすじのホラーさにこそ注目しなければならい),『素粒子』の兄弟のうち,ミシェルの生殖からの愛の分離というテーマに目を奪われがちだが,これはセックスにしか人生の意味を見出せなくなっているブルーノの陳腐さを自己の滅亡の物語として整理するために必要なプロットだと言える.『プラットフォーム』では,主人公は自殺しているものの,観光を資本主義自体をテーマにしているため,私はのちの『地図と領土』や『服従』につながる系譜の最初の1冊だと考えているのでここでは一旦措く.ウエルベックに終末論3部作があるとすれば,『ある島の可能性』が最後の1冊になると考えている.コメディアンが新興宗教に入信してクローン技術で永遠の生を得る話だが(ここでは紆余曲折を省く),物語の最後で描かれる風景は典型的な終末論的世界である.そして,「ある島の可能性」は au milieu du temps (これは前後の文脈を考えると単に「瞬間」のことであるとも言えるが),すなわち永遠を流れる時間の中心にあり,主人公はそのことを察しながら,水面に漂い死んでいく(と思われる).つまり,現在の人間たちの滅んだあとに,もう一度自らを滅ぼすことで世界の滅び=永遠を相対化しているのだ.いまは直感で書いているので終末論とウエルベックの関係をまだ十分に整理しきれていないが,おおよそこんなことだと思っている.そういうわけで,『服従』を私はあまり評価していない(なによりも世界からフランスへと話のスケールがかなり小さくなってしまった).また,来年の1月にはウエルベックが新刊『セロトニン』を出すそうだが,タイトルからしてもおそらくまた自殺が関係してるだろうとは思う(そういえば,『地図と領土』では主人公の父は自殺していた).これを読んでまた色々考えを検討しようと思う.

ということで,終末論の文化の一端に回収されてしまうSRよりも,私としてはこの生からの離脱を描き続けるウエルベックのような作家に注目しているというのが結論になるのだろうか(無計画に書いているので落とし所がよくわからない).ひふみさんは,私と違ってホラーにこだわりつづけるのも,別のアプローチなので,非常に得心がいくし,そもそも私もようやく最近になってホラーをやることの真意が理解できるようになった.そして,鼎談の流れが意味するのは,生きている間は生きているのだから,生きている状態での切断と離脱をめぐって考えるべきということなのだろう.

最後に,付け加えておくと,ひふみさんが「イグジット・スタイルの哲学者のモデル」を打ち出すと宣言している点には完全に同意している.たとえば,最近の話題でいえば,ゲンロンの騒動についても,ゲンロンの存続のために,これからもゲンロンの出版物は買い支え,何らかの形で協力したいということを私は明言したい.そして,私自身,Anywhere out of the world の帰結として,アウターヘヴンを作りたいと思っている.それはaftermath entertainment とは別の名前になるだろう。

反人文学

途中で,反人文学というフレーズが小見出しに用いられていたが,ここでは主にポスドク問題や,左派リベラルの抱える欺瞞の抉剔といったことが話されていた.そういった話であるのであれば,私はこの小見出しはよくわからないな,思った.

というも,人文学と呼ばれているものの中で考えられているものは時代が変われば反人文学にすぎないと私は勝手に思っているからだ.例えば,かつてラヴェッソンがやったような19世紀フランス思想史総括の中で目を引くのはやはり魂論争である.これは現在でいえば心の哲学のようなものなのだが,それと同じような問題を考えるうえでまず魂の実在について論じることが人文学だったわけだ.今では,魂や霊の実在を規定ようとすれば,スピリチュアリズムといって批判されるのは当たり前だ.とはいえ,ヘーゲルが惑星の軌道計算をしていたように,最新の科学的常識を自身の哲学の基盤とするのもまたごく自然なことなので,現代では魂について概念史的アプローチや文化史的アプローチをのぞいて誰も真剣に取り組まないのも哲学的であり,結果的に人文学的である.

ところで,百花繚乱の21世紀初頭の一連の思想にせよ,あと100年もすれば二度の大戦(それどころか,第2次世界大戦は核エネルギー利用の起源として語られるようになり,第1次世界大戦と理念的に切り離される可能性もありえる)が起きたあとの最初の100年の思想史という15ページ程度の概説か,新書程度の長さの本の中で誰が書かれるかの話でしかないだろう.もちろん,100人規模で執筆され,「死ぬまでに読むべき1000人の思想家」といったノリで,100年後のトレンドに合わせたタイトルになるのかもしれないし,というかすでにウィキペディアもあるのでそれをまとめるウィキが生まれるといったように,いくらでも例外はありえる.ただし,これからもっと影響力のある思想家が登場すれば,多くの運動もまた注釈にその名前が挙げられるかいなかでしかないかもしれない.しかし,そうした未来を予見しつつポテンシャルを汲み取っていこうとするところにもまた,人文学の基本的態度があるとも言える.だから,よくある「昔あったよね」批判は,「新しい点をちゃんとうち出そう」というポジティヴなフレーズに変えていく力が必要なのだろう.

デジタルという言葉のメタフォリカルな使用について

これは与太話なのだけれど,情報科学をちょっとだけ勉強して思ったのは,人文学で「デジタル」と言われているものは,実際に情報科学の人からしてみるとむしろ意味が取りづらいところもあるのだろうな,ということだ.

例えば,鼎談でも「デジタルな思考」と「イエスかノーかの二項対立的論理」という見事に人文学的なメタファーが用いられていた.もしも情報科学の人で,バイナリを思い出せばこのメタファーも理解できるだろうけれど、まず論理演算(ブール演算)を思い出してしまった人ははもう意味がわからないと思う(すごく無理に言えば,これはNOTのことを言おうとしています)。というわけで,少しでも誤解の溝を埋めたい.

まず,ここで「デジタル」と言われているものは2つしか選択肢がなく,その間は認められていないこと,だと考えて欲しい.そんなものがどこにある,と思う人もいるだろうが,そういう話なのでどうか素直に受け止めて欲しい.「デジタル」には「アナログ」という対義語がもちろんあるのだけれど,「アナログ」は2つしか選択肢がないのではなくて,他の選択肢が選びとれる状態であることを意味している.これは他にはスペクトルといったキーワードで表現される.

オブジェクト指向という言葉も哲学のほうで登場してから,いろいろ難しいことになっている.ただし,これらの言葉に共通しているのは,とりあえず文章を読むと違う定義がしてあるらしい,ということだ.意味が不明であるというわけでも,何かをごまかそうとしているわけでもないので,どうか温かく見守って欲しい.

それと関係して,「ポスト心」や「文学の終わり」,あるいは「物語の消滅」といった言語ではないものの表象の議論に際して情報科学的な考えてということが言われていた.そのことにもちょっと触れたい.

まず,「デジタル」なものはとにかく「両義性」を許さない,というものとして解釈される.だから,例えば、これに類するAI化する人間,というメタファーは「言葉の両義性や曖昧さを許容できない,理解できない人」という意味になる.これに対して,例えば談話分析で統計学をごりごりに使っている人から「いや,そもそも人間の曖昧さに対する判断自体が曖昧なんで何が言いたいかわからないです」という返答が来ることは当然と言える.けれど,ちょっと待って欲しいのは,ここでは例えば社会全体で「両義性」に対する評価が昔と今では異なってきているよね,昔はもっと曖昧なものが今ほど目に見える形で批判されなかったよね,とある種の文化評論的な文脈がある背景になる.そして,文化的な規定が哲学的であるとはどういうことか,という問題にも影響を与える.だから,こうした語り方がなされている(と私は考えている)

「ポスト心」では言語を使ってなされるコミュニケーションが切り詰められているので,プロトコル通信以外のコミュニケーションはできないみたいなイメージがなされている.もちろん,日常の要件をすべてこなすことのできるプロトコルを設計できればそれはとんでもないことなのだが,これもまた人文学的なメタファーなので,慣れる練習だと思って欲しい.さて,そんな世界に文学がありえないというのは話として繋がってくるのはこれでおわかりのことだと思う.文学作品は一般的には作者がメッセージを込めているものだと思われているが,それにしては曖昧だしやたら長いために,メッセージなどがあってもそれが本当はどのようなものかもう(時には本人にも)わからなくなってしまうものだ.そんな冗長性は許されない世界が来るだろう,みたいな話がここではなされている.だから,物語の複雑さも縮減するようにしていくだろうみたいな話になる.実際,プロット解析と機械学習による生成は基本的にうまくいく.まぁ当然といえば当然で,起承転結という言葉が示すように,物語を物語だとみなす(あるいは物語だと取りちがえる)能力を人は所与の認知条件として持っている(因果推論の議論も関係している).これに関連して,現代の文化の診断の定型句として「人間がAIのようになっている」という言い回しもあるが,これは機械学習によってすでにある現象に対する新しい表現の一種だなと個人的には思っている.ちなみに,円城塔の『文字渦』の話がでていたので手前味噌の話をしておくと,ひふみさんと対談した「中華鍋で言葉を焼く」は円城塔の短編「これはペンです」の挿話から取っている.実は,円城塔の『文字渦』での試みはこの短編に淵源が見られるので,鼎談の中で対談の伏線が回収されたようで嬉しかった.ちなみに,私もだいたいひふみさんとここらへんの議論は一致しているように思った.私はやはり精神分析は文化現象の1つだと思っているし,治療の場で有効である理由は精神分析以外のロジックで説明されるべきだと思っている.なので,私はこの鼎談でいうところのたぶん「ポスト心」派なのだと思う.

そういえば,情報科学系の人の素朴な身分制社会の肯定や,分離主義者の本質主義への回帰などいろいろ言われていた.これについては,いつも思っているのだけれど,どこまでが情報科学っぽいものと関係しているのかよくわからない.例えば,エリートのベーシックインカムで慈善してやればいいじゃないの,というのは,溝口の『赤線地帯』で売春防止法に対して売春宿の経営者が娼婦たちにたち対して,身寄りなく稼ぎもない人間を食べさせてやっているのはこの自分であり,慈善事業をやっているようなものだ,といった台詞を言い放つのとだいたい同じように思える.これは現在で言えばビジネス日本語である「働かせていただいています」もそうだと思う.これは本来ならただの謙遜表現なのだが,これを文字通りに受け取って,「働かせてやってるんだ」,「給料を払ってやってるんだ」と思っている経営者が少ないということに私はあまり確信が持てない.また,現在,情報科学の発展を背景に台頭したいわゆるIT企業関係の人々についての診断もかつての通信や鉄道がいまのITだと考えると,鉄道会社や通信会社の実業家たちの思想と比較してから考える方がより興味深い結論が出そうだなと思った.

おしまいに

書き散らしてしまったが,いい鼎談だったことはもう一度強調しておきたい.そして,ひふみさんがいよいよ打って出ていくのをみたのは非常に気分がいいので,次は単行本を待っています,とひそやかなプレッシャーをかけたいと思う.今後ともご活躍をお祈りしています.

いまさらコミティアと文フリを振り返る

コミティアと文フリ

2018年11月25日にコミティアと文フリで買った本について振り返る.

コミティアにて

初めてのコミティアだったので,何時間かかけて念のため全てのブースを覗いた.フランス人がたくさんいてとても楽しかった.NHKでアニメが開始した『ラディアン』の原作者がサイン会をしているのも観光気分で眺めていた.あと,なんの事前情報もなかったから一瞬だけ「なぜスーツ姿?」と思ったブースも,机を挟むやりとりの様子だけで編集者によるアドバイス,そして,マンガ家がデビューを賭けている場であると理解した.未来の漫画家たちに栄えあれ.

ブースをそうして見終わったのだけれど,結局のところ買ったのは「ゲンロン ひらめき☆マンガ教室」のバトルロイヤル企画の3冊と『マンガ家になる! ゲンロン ひらめき☆マンガ教室 第1期講義録』の4冊だけだった.私はよく萌えがわからないと周囲に言っているのだけれど(何かを「かわいい」とか「エモい」と感じることはできるが,「萌え」という言葉で表現されているものは私にとって違う国の文化に感じる),それが原因だったのだと思う.私はてっきり,ガラスコップが表紙になり,凝ったロゴであしらわれた,何ついて書かれているか想像もつかない冊子のたぐいを期待していたのだけれど,みなそれぞれターゲットを絞った表紙を描いていて,私は完全に何かを履き違えていたようだった.

ではなぜそんな素人の私がコミティアでひらめき関連の冊子を買おうと思っていたかというと,ゲンロンスクール生の作品のクオリティの高さに前々から興味があったからだ.批評については,比較的私の専門と近いところがあるせいかあまり胸を衝くものがないと辛めに評価してしまうが(といっても渋革まろんのチェルフィッシュ論は知らないことがたくさん書いてあったので読んでいて勉強にはなった),芸術校の方は今のところ最終成果展は全て行っている気がするし,なんと新芸術校で名前を知った磯村暖さんは知り合いの知り合いということが先ごろ判明した.

SFのスクール生は少し読んだだけでもっと読みたいと思わせる作家が多かった.2016年の高木刑「ガルシア・デ・マローネスによって救済される惑星」も中世キリスト世界をそのままテラフォーミングに持っていくという戦前のロシアの香りが漂うSFは外連味が効いていたし,2017年のトキオ・アマサワ「ラゴス生体都市」の荒削り丸出しのサイバーパンク(とはいえ,改稿されたものはよくなっていたとたまたまお会いした本人にも伝えた)と麦原遼「逆数宇宙 / the Reciprocal Universe」の筆が走り過ぎて常人ではなかなか追えない体でのイーガンぶりも(こちらも改稿したkindle版を拝読したが,かなりのクオリティに仕上がっており,イーガンらしいわかったけどわからない感が存分に発揮されていた),私の趣味にかなりマッチしていて驚いた.そういえば,『Sci-Fire』も買って読んだ.これらの傑作に比べれば少し落ちるが,同人誌には珍しい高い質の小説ばかりだったのでやはり一読をおすすめしたい.

こうした関心の重なりからゲンロンのマンガのスクールも自然と追うことにしていたのだが,私事が多忙すぎて全く力を入れてマンガ家たちの様子を見ることができなかったので,いつのまにか1期が終わり,2期が始まってしまっていた.そんな折,今回のバトルロイヤル形式なら受講生の作品がまとまって読めるし,そういえばコミティアに一度も行ったことがない,あと文フリも帰りに寄れると思い,それらを買うことにした.

最初に競争の結果を振り返ると,ABCの3つのチームがアルファベット順のランク付けがなされた.個人的にはこの結果には何の驚きもなかった.というのも,Aチームの冊子に収録された作品が明らかに他の2冊よりも平均的に面白かったからだ.先に2位と3位の個別の作品について感想を言うと,素人でも良いとわかったのは,Bチームでは市庭実和「水面に揺れて」,Cチームでは山田平日「ユーハイム物語」とねりけし「美容室難民」だった.理由は奇跡的に本人たちに会うことができたら伝えることにする.

さて,1位のAチームの『大人になったきみへ「小学4年生」』は個人的に結果を見るまでもなく1位だなと直感的にわかってしまうものだった.その理由の筆頭として,それぞれのマンガにスクール聴講生レビューがついている工夫が上げられる.外部の評価をきちんと受け止めることは基本的に難しいし,それが専門家ではない時には特に難しいのだが,このチームの人たちはそれをうまくやってのけており,かつそういう意識がクオリティに反映されていたと思う.どれも好きな作品なのだが,個人的な好みを言うとやはり,しらこ「泡」だろうか.タッチや線が好きなのはもちろん,公園からパチンコやバスへという移動も感動させられたし,泡が弾けるだけで終わる最後も見事だと思った.ただ,もう少し変えられる部分もたくさんあるのだろうという気にはさせられた.他のマンガも読みたいと思った(こう書いた時に課題に提出されていたものも読んだ)

こうした細かいこと以外を総合すると,繰り返しになるが,私はかなりのマンガ読みの素人なので,とにかく視線誘導が素人に優しいものでないと私は読むことさえできない.ABCチームのうち,そうした視線誘導の優しさが最もあったのはAチームだった.よって,このレースの結果には納得した.これらはゲンロンショップで買えるのでぜひ全て買ったうえで比較するといいと思う.

そういえば,『マンガ家になる!』もようやく読んだ.ずぶの素人の僕も4コママンガを描けるのでは?と言う気にさせる素晴らしい本だった.『マンガ家になる!』は,いろいろ縁あってマンガ表現論を多少知っている自分としては,ルポルタージュに近いもので,平均化された技術について教えているわけでもないという点が非常に読んでいて楽しかった.こうした本はたしかにさやわかイズムを反映していると思う.ただ1点だけ脱力してしまったのは,横倉メンゴについての紹介文で「女性らしい」という言葉が使われていたことだった.こういう細かい表現を取り上げると,現在ではPC狩りと言われてしまうが,自分はこの手のあらゆるバリエーション(「〜人らしい」から「君らしい」までのすべて)に対して,「表現方法とその人の属性は必ずしも必要十分で一致するはずがないし,一致する必要もない,せいぜいあるのは文化的な独自性だ」と主張してきたし,実際それは正しいと信じている.この本を読んで『クズの本懐』を読んだが,自分には一切「女性らしい」何かは感じられなかった.それは素晴らしいマンガであり,本人の属性が作品にどう関係しているのかやはりわからなかった.とはいえ,『マンガ家になる!』はやはり素晴らしい本だった.今後も多くの人に読まれるといいな,と思った.

文学フリマ

まず,私がかつて所属していた早稲田大学現代文学会の会誌『Mare』の4,5号から話す.4号は藤原歩「移る」が良かった.5号は全体的に非常にクオリティが上がっていて,なんといっても木澤佐登志「ピーター・ティール論──封建主義2.0のススメ」は秀抜だった.ペイパル創業者で投資家であるティールの思想的背景に迫る試みは,いまや彼が受講していたジラールスタンフォード大学で教えていたことを知らない仏文生が多いだろうことを考えれば,フランス的思考の拡散の一例としてこのティール論も一読必須の価値を持つだろう.戯曲における商人の表象を超えた,フランス文学における実業家フィクションは,やはり19世紀後半の投機バブルに湧いたパリを描いた『金』である.商人から実業家へと表象が移っていく19世紀は,そのまま資本主義の発展とうまく重なっている.よって,経済ビジネス書にあるような業績と格言がセットになるタイプの本(これは100年くらい前からあるし,おそらく自伝・伝記論において考察されるのだろう)ではなくて,実業家の一見単純に見える行動がどのような思想に裏打ちされているのかを考察するのは意義深いことだ.すでにオルタナ右翼で出版が決まっている木澤さんのことなので,ティール論は本になるかもしれないし,今後も期待大だ.そして,木澤さんは無理なスケジュールの中で書いてくださったことを関係者から聞き,私の後輩たちの雑誌に今回の玉稿を寄せていただいた幸甚にかぎりない感謝を捧げる.

次に『Rehtorica#4』を買ったことについて.あの白江幸司a.k.a.ttt先輩(この意味がわかる人も今は少なくなってしまった)が寄稿しているという理由だけで買ったのが,内容が意外で驚いた.まだ10年も経っていないのにゼロ年代の振り返りというわけだ.僕は『アニメルカ』に寄稿していた時期があったのでゼロ年代の人と思われることがあったけれど,どこにいても火星人のような存在なので,ゼロ年代のことはよく知らない,というか(ビジュアル)ノベルゲームやマンガの固有名詞が多すぎてついていけなかった.というわけで多くの人にとっては「感傷」にしか見えないかもしれないこの冊子は僕にとっては非常に興味深い「記録」だった.その意味で,こうした冊子こそ真に重要だと文学研究者的直観が告げている.そういえばこの冊子の関係者である成上友織さんの『リワルド』ぶりの新作『どこから話が』も読んだ.感想は次に会った時に本人に言おうと思う.

それで,白江さんの「侵犯的リアリズムと思考の原形質」は長年の白江フォロワー(そういえば私は高校生の頃からツイッターをフォローしていた)としては白江イズムの詰まった傑作だった.ただし,本人が述べているように,この論考は白江ツイートを追うことで文脈を補強しないと理解しにくい部分が多かっただろう.長年の白江フォロワーとして簡単に注釈しようと思う.

人は世界のあるルールにしたがって人と関係している.ところが,あるフィクションの形式では関係がルールを破壊することで生まれる,あるいは変化する.それが白江の言う「侵犯」だ.それを主題的に描いていると考えられる漫画家の一人が岩井均であり,そのテーマが集中的に表現されているのが『寄生獣』というわけだ.だからこそ,このテーマティークな読解は,一見するとアカデミックな細部への耽溺に見えるが,白江の本来の目的は,デスゲームやサバイバル(対象との乖離と世界と独自の関係の結び方ということで言えば,少し言及されているような『ONE』的なものも加えて良いだろう)をストーリーラインのベースにした2000年代以降の多くのフィクションを規定している観念(社会的通念,我々の懐かしい言葉で言えば,「想像力」や「コード」)の正体を追求することだ.この論考はその一端を垣間見せている.また,近年では権謀術数をめぐらせる中世や王宮を舞台にしたドラマが世界的なヒットをしているが,これらもデスゲームの一種であるとすれば,バロック演劇に特徴的な陰謀の宮廷劇の表象であり,さらにはすべてが敵であるというスパイものに典型的なパラノイア状態と言え,デスゲームが位置するより深く広い文脈が見えてくる.

ところで,『Rehtorica#4』にはオフラインで会ったこともある知り合いが寄稿していた.江永泉だ.彼は今回,「少女,ノーフューチャー」で桜庭一樹の『砂糖菓子』論を書いている.江永と私は年が多少離れているのだけれど,ある時期.深夜まで話し込んでいた.このノーフューチャー論のわれわれの懐かしい記憶の1つだ.論旨をここであらためて繰り返す必要はないけれど,1つだけ付け加えておけば,キャラクターの欺瞞がそのまま作者の欺瞞につながっていく読解方法を私は彼の書く文章で頻繁に目にしてきたが,今回は非常に見事で,彼の書いてきたエッセイの中で一番優れていると思う.こうした文章に結実したのであれば,あの胡乱の日々も無駄ではなかったのだな,と久しく覚えていなかった感慨にふけった.

まとめ

今年は本当に楽しかったと思えるのは,コミティアと文フリのそれぞれの素晴らしい経験と,そこで買った冊子のクオリティの高さゆえだったのは,その理由の1つとなっている.ここで紹介した冊子に関わる全ての人々に,感謝の気持ちを伝えたい.

アーギュメンツ#3レイ・ブラシエ「脱平準化──「フラット存在論」に抗して」の誤植ほか

アーギュメンツ#3について

刊行からすでに随分経ってしまったが、私生活が落ち着いてきたので簡単に僕が協力したレイ・ブラシエ「脱平準化──「フラット存在論」に抗して」の翻訳の誤植についての訂正と感想を述べたい。

誤植について

訳者が携わった中で気づかず残された誤りについてここで訂正し、お買い求めいただいた皆様に謝意を申し上げます。

最初の誤植として挙げられるのは、88頁では「「フラット存在論」に抗して」では鉤括弧でフラット存在論を括っているが、19頁の目次では同じ箇所を鉤括弧で括っていない点だ。これは88頁の方が原文に依拠しているので、目次が誤植となっている。

最後に、誤植というよりも、単に内容に誤りがあった箇所がある。

翻訳に際しては、上述の通り講演原稿であることも踏まえて、日本語としてできるだけわかりやすい文章となるよう心がけた。注釈は、原文の注釈は邦訳が確認できなかったのですべて原文のまま表記し、(『アーギュメンツ#3』、p. 103)

この「原文の注釈は邦訳が確認できなかったのですべて原文のまま表記し」という点が誤りである。下訳を作った後の作業段階で直すつもりだった部分を僕がすっかり忘れてしまい、解題の雛形を作成した際に、訳文見直しの作業を中心的に行ってくれた仲山さんにも確認することを怠ってしまった。

具体的な間違いを以下で指摘する。まず、原文注釈5に、次のような記述がある。

For the distinction between scientific functions and philosophical concepts, see Gilles Deleuze and Felix Guattari, What is Philosophy?, London and New York, Verso, 1994, pp. 117–162. (Brassier, “Deleveling: Against ‘Flat Ontologies’,”p. 73.)

このうち、英語の指示は101頁に訳出した通りである。そして、ドゥルーズガタリの『哲学とは何か』からの引用が示されている。94頁でブラシエが検討しているデランダのファンクション論が検討されており、それは『哲学とは何か』第II部「哲学──科学、論理学、芸術」5章「ファンクティヴと概念」、6章「見通しと概念」に依拠している。原文注釈5は、普及している日本語訳では、以下に対応している。ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ『哲学とは何か』、財津理訳、河出文庫、199-273頁。

目に付いた大きな間違いは以上となる。改めて、防ぐことのできた誤りが世に出回ってしまったことを深く反省し、謝罪いたします。

未記載の訳注

訳注提案をしたところ、未記載が決定した訳注が1つあるのでここに供養しておく。

93頁のデランダ『強度の科学と潜在性の哲学』からの引用に「適切な問題」と訳されたwell-posed problemという箇所にはもともと注釈がついていた。これがドゥルーズの議論を参照していること、線形力学についての話題であることを考えると、明らかに物理学用語を踏まえているということで、超音波研究をしていた友人のナカジマくんに訳注の草案を送って訂正してもらい、原稿用紙2枚分の訳注が出来上がった。言うまでもなく、あまりにも長大で、そもそもドゥルーズもそれほど厳密に理解できていないと考えれるために訳注は削除された。訳注は以下の通りだ。


ここで「適切な問題」としているのは、良設定問題(well-posed problem)のこと。一般的には「良設定問題」と訳されるが、『数学辞典』(第4版、2007年、岩波書店)など参照し、文脈をふまえてこのように訳出した。
 良設定問題はジャック・アダマールが「偏微分方程式理論における極限の問題」(M. Hadamard. Les problèmes aux limites dans la théorie des équations aux dérivées partielles. Journal of Physics: Theories and Applications, 1907, 6 (1), pp.202-241. )で、物理的過程を説明する場合の数学的モデルがどのようにあるべきかを考える中で定義された。その定義は、解が一意で存在し、媒介変数の連続的な変化に従って解も連続的に変化するような性質というものである。以下では、ブラシエが引用しているデランダがこの語をどのような意味で用いているのかを説明する。
 デランダは『強度の科学と潜在性の哲学』の中で、ドゥルーズの『意味の論理学』で論じられる、微分法方程式における問と解の関係を独自に解釈している。よく知られているように、『意味の論理学』の第9セリーでは、微分方程式における特異点が隠喩的に用いられていた。ある出来事が生じた場合、出来事が生じたという問題そのものがある、ということが前提とされ、問と解の一対を援用する形で、出来事という問題の解とは何か、ということが考えられる。この時、「問題を決定するのは特異点だけであり、特異点は問題の条件を表現する」 (ジル・ドゥルーズ『意味の論理学 上』、小泉義之訳、河出文庫、2007年、106頁)と言われている。こうしたドゥルーズにおける問題と解の議論を、デランダは、散逸構造論ならびに非線形力学におけるカオス理論などといった現代的な力学や、生物学的な個体発生の現象と構造的に対応させることで潜在性という議論へと敷衍する。それについて、まずドゥルーズ特異点の定義を確認し、次にデランダがそれを受けてどのような解釈を展開しているかを確認する。

ドゥルーズ特異点を参照する際に、議論をベクトル場における積分曲線(『意味の論理学』、107頁)を例示している(以下の説明は、オンライン上で読める資料としては吉野正史「ベクトル場と力学系微分方程式」(http://home.hiroshima-u.ac.jp/yoshinom/math/sentan160520.pdf )、Erich Miersemann, “Partial Differential Equations” (www.math.uni-leipzig.de/~miersemann/pdebook.pdf) などを参照した )。ベクトル場は方向場とよく混同される概念である(http://yuki-koyama.hatenablog.com/entry/2017/11/02/152331 を参照)が、今回はベクトル場が大きさと方向の両方を,対して方向場が方向のみの情報をもつものとして扱った。ある1階の微分方程式 y=f(x,y)とその解を y=g(x)とする。この時 i平面上で y=g(x)が表す曲線 Cを、微分方程式の解曲線という。 C上の任意の点 (a,b)において、傾き m=f(a,b)つまり方向は、 m= y’( = dy/dx) = f(a,b)と計算できる。これを xy平面上の各点について計算して求められる解曲線の傾きの分布が方向場である。ところで、実数全体を\Reとする時、 x=(x_{1}, x_{2}, ... , x_{n}) \subseteq\Re^n(n\geq2) で与えられる、方向場(a_{1}(x), a_{2}(x), ..., a_{n}(x))が与えられている時、ベクトル場は各軸方向の微小変化ベクトル量をかけることで、X=\sum^n_{j=1}a_{j}(x)\frac{\partial}{\partial x_{j}} \frac{\partial}{\partial x_{j}}, x_{j}=(0, 0, ..., \Delta x_{j}, ..., 0)\Delta x_{j}は、x_{j}方向の微小変化量、と計算できる。ただし、ここでは、ある領域nで連続である。さて、ドゥルーズが言及しているベクトル場における特異点とは、与えられた連続なベクトル場Xに対して、すべてのa_{j}(x)が消える点のことである。わかりやすい例を挙げると、x\frac{\partial}{\partial x}-\frac{\partial}{\partial y}とベクトル場がある時、原点(0,0)特異点となる。接線の方向の分布を図で表した場合、ちょうど原点に空白ができていると想像してほしい。ところで、ベクトル場のある点に接する曲線を求めることができる。これをベクトル場を積分するという。先のa_{j}(x)がある正実数Lについて\biggm|f(x,a_{j})-f(x,a_{j-1})\biggm| \le L\biggm|a_{j}-a_{j-1}\biggm|である時(リプシッツ連続関数である時)、つまり、関数f(x,a_{j})微分することができてさらにそれが連続であるという条件の場合、\frac{dx_{j}}{dt}=a_{j}, j=1, 2, ..., n.積分することでベクトル場のある点の積分曲線を求めることができる。ただし、変数が0の場合から解の状態を指定し、それが方程式を満たすかという初期値条件で解の存在と一意性を確認し、与えられた点a=(a_{1}, a_{2}, ..., a_{n})特異点でない場合にのみ積分曲線は存在する。これは特異点にはaの点が存在しないことから自明である。
 ところで、ここで触れられた初期値問題こそ、良設定問題の一つである。良設定問題にはもう1つ微分方程式における重要な問題があり、それが境界値問題である。デランダのドゥルーズ解釈を理解するうえでは境界値問題も重要となるが、ブラシエはそのことについて議論を重ねているわけではないので、ここでは境界値問題についてごく簡単に説明するにとどめる。初期値問題はすでに見たように、ある微分可能かつ連続な関数を変数を0から解が一意に決定するようにする問題である。微分方程式では、他にもある領域の中で関数がどう振る舞うかを閉区間で調べることが多い。その際に、境界上で指定された条件を満たすかどうか調べることを境界値問題という。流体力学、特に数値流体力学では非常に重要な問題となっている。良設定問題は、以上から、次のように考えられる。すなわち、解が存在すること、それが一意的であること、初期値と境界値の条件を連続的に保存していること、それが物理モデルを扱う上で適切と考えられる問題の条件なのである。
 以上を踏まえて、デランダが良設定問題について触れているところを見てみよう。デランダによれば、「何が重要で何がそうでないかといったこと、そうしたことを現実的な出来事の中で理解するということ(…)それは、適切な問題を定義する特異的なものと正則的なものの客観的な割りふりを正確に把握することを伴っている」。まず、この表現について見ていこう。ここで「特異的なもの」と「正則的なもの」と表現されているのは、いずれも特異点と正則点を隠喩的に用いているドゥルーズの表現にならったものだと考えられる。ドゥルーズ特異点を「前-個体的」(『意味の論理学』、104頁)で「非-概念的」(同上)なものとして考えている。これは特異点がいわば空白でありながら積分曲線の方向の基準点のように見える様子を、現前していないがシステムを構成しているものに重ねているということだろう。また、特異点はそれぞれの「セリー」の構造を組織し、「出来事の様態」である「問題の条件を表現する」(前掲書、106-7頁)ことから、特異点と問題や出来事が関わる。デランダが「何が重要で何がそうでないかといったこと、そうしたことを現実的な出来事の中で理解するということ」と述べているのは、おおよそドゥルーズ特異点と出来事の関係を説明するものだと考えれる。ドゥルーズによると、「解については、解が現出するのは、積分曲線と、積分曲線がベクトル場の中で特異性の近傍でとる形態とを伴う場合だけである」(前掲書、107頁)と非常に迂遠かつ曖昧な言い回しではあるが、初期値条件にしたがったうえで、特異点でないところに積分曲線が存在するということを述べている。デランダは『強度の科学と潜在性の哲学』の中でドゥルーズの様々なフレーズに込められた意味を再構成していくスタイルをとっているので彼の潜在性の理論にこの積分曲線とベクトル場への言及がどの程度の影響を持ち得たのかは図り難いものの、少なくともこうしたところで良設定問題という表現を用いる余地があると考えたのだろう。物理学の表現としてあまり適切ではないものの、特異点と正則点を把握することができる良設定な微分方程式では、より良い数学モデルが構築可能となる。最後に訳語について補足しておく。特異点と正則点の分布(distribution)をここでは「割りふり」と訳した。これは、ドゥルーズの訳書では一般的にこのような場面でのdistributionを「割りふり」と訳出する慣例に従った。
 良設定問題が最初に触れられた箇所についての解説は以上として、次に、ブラシエが以下で繰り広げる一連の批判について整理しておく。まず、デランダが解釈するドゥルーズの『意味の論理学』の基本的な理解を確認しておこう。
 『意味の論理学』はドゥルーズのキーワードの1つである「表面」や「表層」を展開する書物である。本は大きく分けて2つの表面の考察に分けられる。まず、前半は表面でどのように意味が人格や命題を形成していくのか、というシステムの考察で、とりわけ16・17セリーで重要な議論となっていく。次に、後半の27セリー以下では、このシステムそのもの、すなわち表面がいかにして生じたのかというのを考察していく(以上は朝倉友海の説明を参照している。 『ドゥルーズ』、河出書房新社編集部編、河出書房新社218-219頁)。一方で、デランダは、ドゥルーズのこうした考えを「ドゥルーズ存在論の認識論的側面」だと捉えている。デランダはドゥルーズに見られる認識論と存在論の二重性を、現実的な現象と数理モデルの対応に拡張する。ブラシエがデランダの弱点として取り上げている「同型性」とはこのことを意味している。また、この同型性こそブラシエの批判ポイントなっていく。ブラシエによれば、その同型性は何によって保証されているかが考慮されていないのだ。続きは、ブラシエ自身の文章を読んでほしい。
 最後に、本訳注の物理学の知識を要する事項は訳者の友人であるナカジマ氏に監修していただいた旨を記しておく。旧友に敬意と謝意を表する。





翻訳について

翻訳にいたった経緯

今でも理由はよくわかっていないのだが、仲山ひふみさんから仕事の依頼があり、僕の好きなミンガラバーで食事をすることとなった。『アーギュメンツ』のことは知っており、その第3弾の翻訳のお手伝いをして欲しいとのことだった。

19世紀の人間が19世紀の言葉遣いで書いた哲学書ばかり読んでいたその頃、ナウでヤングな哲学の議論を翻訳できるか心もとなかったが、論文がもともと講演であったことや仲山さんのバックアップがあることなどを条件として引き受けることにした。

最初の下訳は僕の奇癖のために一切の漢語を配するというかえって読みにくい原稿になってしまったが(例えば、「不可能性」はすべて「できないこと」みたいな感じだった)、最終的には今の形に落ち着いた。

仲山さんの丹念な校正の後、最終チェックの段階で全国の哲学博士課程の学生に目を通してもらったそうで、私の翻訳とはなっているものの、実際は多くの人々の力の成果であることを強調しておきたい。ここに改めて謝意を表する。

内容について

個人的に、今から思えばspeculative realism関係の文章を本腰入れて読むのは、19歳くらいの時にChristopher WatkinのDifficult Atheismを読んだ以来だった。といっても、ブラシエの話はあまりこの本には関係ない。

ブラシエによるハーマンとドゥルーズ=デランダ批判はようはマジレスだ。ハーマンのGeviert拡張としての感覚と実在の存在論も、デランダのように生成を問題と解決に置き換えることで、科学哲学で問題になっているような、認識論と存在論の対立を一致させる方法について、そんな考え方ではうまくいかないと言ってるだけだ。こうした批判は実際のところ、僕はいつも漠然と思っていたことを非常に的確に指摘していて、得心がいくところが多かった。

また、そもそも物理学偏重というか、科学も一枚岩でない(Knorr-CetinaのEpistemic Culturesとか)ことに目をつぶってやるのは筋が悪い。むしろ、今後は19世紀後半のあの感じ(今ちょっと日本酒を飲んでいて書くのが面倒だがきっとわかってくれるだろう)を今やるってことの意味はどうなんだろうって考える方がきっと実り豊かだろう(量子力学における存在論は?、統計学における認識論は?などなど)。

最後に話は全然変わるけれど、僕はマルクス・ガブリエルが好きだ。ハーマンはそうでもない。理由はとても単純で──。この話はまた別の機会にしよう。

首都圏と廃墟の備忘録

首都圏の老い

2018年3月17日に『都市の老い』刊行関連イベントの『首都圏の老いにどう向き合うのか』を聴講した。予定がおしていたので遅れて入っていくと、市長が話していた。いつものように場所とテーマ以外とくに調べずにやってきたら、生まれて初めて市長が基調講演するたぐいの学会だったので驚いた。背広姿の人々もちらほら見られ辟易としたが、調布市の市長は達者なしゃべりをしていた。

さて、首都圏のインフラ老朽化や空き家率の問題に関心がある理由は、フランス文学研究をやっていくなかでパリの都市研究を読む必要があった折に、都市のインフラと衛生というテーマの著作を読み、非常に面白かったからだ。混迷と冥闇を深めていく文学研究は自分が研究対象としている作家の生まれた頃の社会情勢は月単位で知っておく必要がある場合などあるが、どうしても尺度を広くとっておかないと混乱してしまうので、都市研究のようにある程度歴史の流れを抑えることができる研究は非常に役に立つ。今回、自分が生きている都市における問題とそのアプローチ方法に関心を持って赴いた。

詳しくは例の著書を読めばいいらしいが、一番面白かったのはリクルート住まい研究所所長宗健の発表「民間主体からみた今後の都市の問題」だった。不動産関係に無知な自分だったが、いわゆる住調は目視確認による空き家確認だそうで、全国の不動産業者が収集しているデータを総合した場合と大きく異なっているという事実だった。そして、以下で述べる理由から、実は空き家率は見積もりすぎであり、耐震強度や建物自体の老朽化のために、住宅ストックが増えているわけではないという。では、現状とこれからについて見ていこう。

現在の住宅建て替えないし耐震工事を含むリフォームの割合が続いても、2027年には首都圏内の賃貸共同住宅は基本的に4割に改修工事(術語を正しく使えてないと思うが、このブログではとりあえず耐震工事や水道・電気・ネット周りの整備の意味として使う)の必要が乗じてくる。とくに現在の東京は数十年前のアパートが集中的に点在しているところが多く、今後老朽化していくことが珍しいという。パリを引き合いに出すと、古い建物の外観は残したまま、内部の改修工事を行なっていくスタイルなので、都心部に40年、30年の老朽化を迎えるところはほとんどないと思われる。パリの場合、それは郊外に作られた団地に生じている問題である。また、アジアに目を向ければ今後20、30年後に同じようなことが各地域で生じるはずなので、個人的には、東京都心での対策の結果(ほとんどの確率でそれは失敗すると悲観的に考えているが)は参考になるだろう。

老朽化と同じように深刻な問題として考えられているのは、家賃滞納の問題である。これは社会の高齢化と密接に関わる問題である。一般的に再就職が難しくなる年齢や体調になると、年金だけで家賃を払うこともできないし、家族からの支援が期待できないのは当たり前となっていくのが高齢化社会である(なぜかこれがわからない人が多いので早急な啓発が必要なのだがーー)。現在、三分の一(都内だったか首都圏だったかメモが抜けているが、いずれにせよ想像している以上に)の65歳以上の高齢者が生活保護で家賃を払っているそうだ。いまのところの福祉政策では、今後家賃滞納はさらに問題となっていき、数千億円程度になると考えられている。たしかに、持ち家率も低下しているし、独居老人が増えているので普通に考えて現在のシステムは破綻するだろうし、東京都がそうした破綻に有効な対策を打てるとは考えられないので、確実に何らかの物理的な軋轢(加速的なホームレス問題、福祉のための闘争)が生じてくるだろう。

さて、こうしたデータから推論すると、まず空き家が増えているのは問題だ、という言説は基本的に煽られすぎている、というのが実情だそうだ。改修工事が必要な建物を投資によって新築に建て替えるべきだが、空き家率が多いという煽りによって投資率が下がってしまえば、そもそもまともに住むことができる家自体が減ってしまうという。対策としては旧耐震物件のリースの法的規制などが考えられるという。住民の高齢化と家賃滞納の増加、住民のセーフティネットの構築が今後数十年の課題となっていくそうだ。

といっても、個人的にはもっと時間がかかると思う。まず、若年層の減少による労働者層の減少は、ほぼ間違いなくアジア圏からの留学生や国内の3世世代コミュニティによる支援で定着していく国外の人々の手によって補われる。そのとき、できるだけ安い物件が求められるはずで、おそらく産業界の要請から、法的規制をかけづらいだろう。早稲田大学に通学しているとき、1970年代を思わせる物件が周辺に多く残っており、家賃も4万円と破格だった。そうした家はさすがに新築になるだろうが、現在6万円程度の家賃の家は軒並み4万円程度になっていき、そこに住もうとする人々は潜在的には多いと思われる。もちろん、こうした予測はいくらでもはずれようがある現在の政策模様なので、何も確実なことは言えない。

VOCA展2018

うってかわってVOCA展の話である。VOCA展は大学生になりたての時に建畠晢氏の授業で「え、現代アート面白くね?」となった時に行った思い出のある展覧会だった。最後に行ったのはだいぶ前で全く覚えてないが、今回のほうが絵画については素人目でも技術力が高い作品多くてびっくりした。

今回行ったそもそもの理由は、梅沢和木と田幡浩一という知っているアーティストが2名選出されていたからだった。梅沢さんとは、ゲンロンカフェが開業したばかりだった頃に、なぜか徹夜で飲み明かしたグループでご一緒し、本当になぜそうなったか全く覚えていないのだが、日本語ラップやアメリカで行われている口喧嘩大会(UW Battle Leagueのこと、こんなんUW Battle League Presents: Arsonal Da Rebel vs. T-Rex (FULL BATTLE) - YouTubeを見せる機会などあり、個人的にそのシチュエーションが全く意味不明だったのでご本人はおそらく忘れているだろうが、僕はよく覚えており勝手に見知っている。その時代、ゲンロンオフィスに入ること自体もいろいろな機会に顔を出しさえすればツテを頼って可能だったので、例の壁画を見て、「へぇーこんな作品なのか」と正直いえばよくわからないという感想だった。ところが、何度か調べたり別の機会に作品を見ていくうちに、これはすごいなと思うようになった。今回展示されいた作品、「すべてを死るのも」は本当に素晴らしかった。見どころは多いが、まず中央少し右側あたりにいた気がするこなたが後ろを向いている姿は胸を衝くものがあった。僕はシュルレアリスム研究者に薫陶を受けているのでコラージュといえばマックス・エルンストの試みを思い出すのだが、彼が百頭女のシリーズで用いていた挿絵は当時売れていた小説のものだったし、ほかにも図鑑などを切りはりしていたので、ある意味で情報の断片的なイメージの再統合をやっていたわけだが、もちろんこの時代に同じことをしても仕方がない。梅沢作品はこうした初期のコラージュではなく、ある時期のキュビズムなみに切断のかなり細かく、さらにそのうえ、断片から新しい像を作っていく中でその断片が関わるイメージを統合していく手法をとっている点がやはり見ていて驚きが多いし、ものすごい技術だと思う。また、絵ではなくて実写の写真のコラージュでは例えば消火器の輪郭を赤くなぞるといった工夫によって実写と絵の差異を消したり(あるいは別の箇所では目立たせたり)していてその細かな工夫に感嘆した。全体的に、以前からあった廃墟感に3・11以後に増えてくるようになったいまここにある廃墟を重ねていき、再生していく廃墟という奇妙な造形を描いている梅沢作品は、今後さらに評価されていくと思う。

さて、田幡さんについては、ご本人のことは存じあげない。最初に知ったのは千葉雅也『動きすぎてはいけない』の素敵な装丁画からだった。僕はこの装丁画が本当に好きで、その後、銀座でやっていた個展にもいった。この個展は本当に素晴らしく、田端作品の新しい傾向であった、断層のように静物画を割る表現の作品があり、今回の作品(タイトルを失念してしまい、ネットで調べてもよくわからない、ごめんなさい)もまたその一つだった。なんというか、素人目にはマネのアスパラガスの作品をトーンを落として描いたように見えるものを左よりに分割しているこの作品は、一連の試みの中では個人的にはピンとこなかった。しかし、個人的はこのシリーズは好きで、個展の時に配布していたマッシュルームの作品は以前は家に飾っていた。これらの作品の重要なところは、分割線がなかったとしてその全体像が完成することはおそらくないだろうという印象を与える点にももちろんあるが、(それはばらばらにされたトランプから見られる傾向)なによりもそれが分割というよりも断層であるという点であると思う。自然現象を表現する時には寓意の手法がとられるが、田幡作品はたんに断層を持ち込んでいるところが素晴らしい。馬鹿馬鹿しい表現でいえば、宇宙がそこにある感じする、のだ。もう少し真面目に考えると、ようは、岩が水になるような時間軸で静物画を行うという試みが僕の強い関心を引いている。おそらく僕のような地層大好き人間しかそうは思わないのだろうが、日常の時間スケールの対象物が圧倒的な地質学的スケールの時間と混在しているような印象を受ける。ようは、地学大好き人間は田幡作品になかりグッとくるものがあるだろう。これからの展開もとても楽しみだ。

世界風景から廃墟へ

ブリューゲルの本物の作品を見たかったので、ブリューゲル展にも行った。ボスから続くスタイルの系譜を見ておきたかったからだ。マザランが航海していた時代から北ネーデルランドが独立するまでの長いスパンを三世代とそれ以後の作品で構成するのは勉強になった。いろいろ思うところあるが、一番意外だったことを書いておく。

自然のなかに人工物をまぜて描くというのが16世紀のフランドルの画題としてよくあり、世界風景と呼ばれていた。川辺の農村や、市場帰りの農民の杣道の奥に都市が見えるといった作品だ。この時代には、こうした作品が非常に好まれていたという。それを見たとき僕はすぐに新海誠を思い出した。僕は新宿に住んで5年以上だが、新海は新宿を世界風景のように描く天才だと思う。彼の描くような美しい新宿は決して存在しないし、これからも決して存在しないだろうからだ。

そんなことを思いながら、世界風景絵画を見ていると、唐突に17世紀の廃墟画の名手にして建築画家ピラネージのことを思いだした。古典時代へのロマン主義的回帰から廃墟いいよね感の高まりがあり、ガスパー・D・フリードリヒといったロマン主義画家も好んで描いた題材だった。いまでもそうだが、田園風景が好まれる一方で、廃墟の写真や絵画は大変よく好まれている。どちらも近代化を通じて洗練されていった画題と手法だ。ここで、先ほどの新海のことを合わせると、そういえば、サイバーパンクメビウス作品のブーム以後、AKIRAに始まり、弐瓶作品や少女終末旅行など幅広い作品で廃墟のテーマが長期的に流行しているのだった。他にも新海のような新たなる世界風景を圧倒的に示しているのは京都アニメーション(とりわけ山田尚子)ぐらいだろうか。

しかし、新海の描く新宿はさきほど触れた首都圏の老いが示しているように、歩く廃墟の群れなのだ。主人公たちが住んでいる街から巧妙に排除されているのは、タイルの剥がれや、煤で汚れた木造アパート、凹んでいるが誰も直さないコンクリート舗装された玄関、経年劣化し鉄筋の見えるコンクリート壁、そこを通り過ぎるホームレス、横切れば聞こえる周期的な痙攣の数々である。世界風景と廃墟画は画題が異なっているために関連性は時代性に制約されているだけかもしれないが、このとき唐突になにかが繋がった気がした。村が出来上がり、100年がたった。新しい家を作ることが10年ほどなくなり、古い家を放置したままにしていた時代があったのではないのだろうか。あるいは、貴族の住むような屋敷も次第に経年劣化の色を隠せなかったのではないのだろうか。世界風景で描かれる新しい自分たちの住居と、廃墟画で描かれるかつての別の人々の住居の以降する瞬間があるのではないかと思った。もしも論文でそんなものがあればぜひ読みたい。

新海に話を戻すと、彼もよく廃墟を描いている。飛行場がまずそうだし、あのファンタジーもそうだった。梅沢作品も、生まれてくる廃墟と廃墟になってしまったものをたくみに描き分けているし、田幡作品の時間操作も僕にとってこの流れに属する。そして、この街は老いていく。どうやらこの1週間、奇妙な連続性に導かれていたようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

開発合宿まとめ

開発合宿まとめ

3日目で夜にブログに進捗をあげる元気が完全になくなったので、帰りの機内で開発合宿の顛末を記して、備忘録の代わりとしたい(書き終わったのはさらに2日後)。

3日目

開発合宿は目的や人数によって設定すべき課題が異なる。僕ら二人はVCS-Miradorというアイディアに基づいてデジタルコレクション管理研究支援アプリUrticaを研究の合間に作っているが、相談した結果Electronで開発を進めることになった。その経緯はMirador3がReactに基づいてアプリケショーンとして展開される予定となっているからである。しかし、問題なのはMiradorをいじろうと試みたことがある僕がReactのサーバサイドを支えるnodejsに触ったのは1年前でそれ以後もっぱらコーパスに関心を寄せてpythonしか触っていなかったことと、もう一人の開発仲間は機械学習のエンジニアでガンガンGANを回している(と僕は勝手に思っているが、実際はデータセットを真面目につくって、自然言語処理機械学習の手法でいろいろなことをしている)ので、「jsみたいな関数型言語!?クロージャは悪い文明!!」という態度表明をしていたことだった。

3日目まではそうしたことに慣れるために彼はElectron本でアプリ作成を行ってみることに、僕はReactのVDOMとComponentの概念を理解してGallicaからManifest.jsonを取ってくるコンポーネントを作ってみるといういかにも実装屋と理論家のマインドでそれぞれ開発準備を行っていた。

教本のチュートリアルアプリを雛形にUrticaの原型となるようなものができあがった。

4日目

この日には雛形で作られたエディタとチャット機能をそれぞれリンクによって紐づけることでいちおうアプリに複数の機能があるという状態にすることができた。しかし、問題はエディタからチャットルームに遷移する際にウィンドウが初期化するので入力したテキストが消えてしまうことがあった。また、Gallicaからフェッチしてきたjsonファイルを描画して表示するのもうまくいかなかった。おたがいに喧喧諤諤の議論をしたものの、互いに論破しあっていくなかで、そもそもjsやreactへの理解がまだまだ足りていないという認識が強まりつつあった。

5日目

基本的にElectron周りを任せっぱなしであったが、エディタの問題を僕がなんとかするということになり、レイアウトやリンクの調整など細かいところをやることとなった。結果的に、エディタの問題はリンク繊維にしている以上、バッファを保存する仕組みを作らないと無理だが、それをメモリに保存しておいて再描画時に出力することを考えないといけないということになった。

あと、突然友人が「アロー演算子すごい! 美しい!」と叫び出し、jsと和解していたことを記しておく。

この日の夜、毎日15時間ほどコーディングし続けていたのでもう無理となって大学関係施設なのにwifiはないがなぜかあった将棋を指す。飛車角落ちで負けたが、面白い将棋となった。

6日目

僕は5日目からgit管理をするのが久しぶりだったので、branchの森で迷っていた。それとは別に、二人でjsDocを書いて締めとしよう、と話し合いできまった。というわけで必要な処理を加えつつ、googleのjsDoc方針に従って今後のアプリ開発に備えた。

結論からいって、1週間集中してjs、react、nodejs、electronを触れられたのはよかった。これくらいまとまった時間がなければなかなか進まなかったのはまちがいない。最終日にウツボの天ぷらを食べたが非常にうまかった。